国志夢走

Visionを描き、自身の仕事や人生に誇りを持った人であふれ返る国をつくりたい。「みんながプロフェッショナルに出演できる」そんな社会が理想です。

成長とは、「視座が上がること」である

突然だが、僕は頑張っている人に安全地帯から石を投げる日本の文化が嫌いだ。

 

この日本という国はリーダーが損をしやすい国だと思う。

newspicks.com

上記の動画でも落合陽一が言っていたが、人よりも何十倍も努力した人が得るお金は二倍でないと認めないとか、苦労の伴わない成功は認めないみたいな風潮が根強い。この動画では未来の世代に向けて日本財政の問題を解決していかなくちゃいけないという警鐘を鳴らしている。また次世代を担っていく若者に対する覚悟も求められていて、自分自身に訴えかけられている感覚を強く覚えた。ぜひ見てほしいと思うので引用した。

 

 

 

 

『(日本人)』という書籍においても、日本人は人一倍権力を嫌う民族であるということが主張されている。(詳しくは以下のブログに書いているので参照してほしい)

jackshima.hatenablog.com

 

ここまでの導入で僕が社会に対して覚えている違和感は伝わったと思う。頑張り損な社会はよろしくないという話だ。人一倍みんなのことを考えて、頭を悩ませ責任も背負いながら頑張っているリーダーが、浅慮な大衆に石を投げられ傷つけられるのは理不尽だと思っている。

 

 

タイトルにもある通り、僕は成長の定義を「視座が上がること」としている。

ここからはなぜ僕がそう考えているのかと、その成長を全人類が遂げることで理想の社会は実現するはずだという主張をする。

 

 

成長とはなんだろう?

言葉の定義を探る際、僕はよく語源に立ち戻って考えてみることをする。「長所に成る」と書いて成長なので、たまに聞くことはあるが短所の改善とは成長ではないと昔の人は考えていたのかもしれない。長所になることだけが成長なのかも知れない。

 

世間一般で言われる成長とは、できないことができるようになるといったスキルの向上がイメージされるだろう。就活などで、「この会社に入れば成長できますよ。」なんて会話がよくされると思う。この場合における成長とは、社会の大多数が潰しがきくと思われる保証や保険になるようなものの向上を指していると思う。かつては資格の習得だったかもしれないし、今なら「プログラミングができますよ」とか「事業の作り方がわかりますよ」とか、「マーケティングを学べる」だとかなのかもしれない。

 

あとは数字の上昇も想起される。経済成長や業績の向上などは数字の上昇という意味の成長だ。

 

このようなスキルやナレッジの習得も間違いなく成長の1つだが、マインドの成長というものもあると思う。具体例をあげると、許容範囲が広がる、挑戦できるようになるなど。僕はこのようなマインドの成長こそが真の成長だと思っている。

 

...そんなことはわかっている、当然じゃないかという声が聞こえてきそうだ。

 

 

でも、現実を見てみるとマインドの成長を考え切ることはできていないように思う。

 

例を出そう。成長に密接な関わりを持つものとして教育がある。教育って単に勉強をできるようにすることではないような気がするだろう。でも、実際に教育の成長は点数に落ち着くものが出てきそうになるよね。家庭教師のアルバイトをしていてもそう感じる場面は多々ある。

 

 

視座が上がることが成長だと述べたが、視座が上がるとはどういうことだろう?

視座

物事を見る姿勢や立場。ー「人道主義的な視座で発言する。」

視座(シザ)とは - コトバンク

この立場をなるべく引き上げて考えれるようになることが視座が上がることである。いろんな人の立場になって考えてみることができるということだ。

 

先日高野山にて宿坊に参加したのだが、そこで教えてもらった言葉に言い換えると認識の範囲を拡大するということも近しいだろう。

 

 

この社会は視座が上がっていないが故に数多くの問題が起こっている。日本に焦点を当ててみれば、多額な借金を背負っている債務大国であるにもかかわらず未来の世代のことを考えずに先延ばしにする意思決定が存在している。バイト先ではアルバイトと社員が対立していたり、大学では教授も生徒も互いに理解し合わない。

 

視座の足りない最たる例は環境問題だ。環境問題は目先の経済発展にとらわれて地球の持続可能性を超えたエネルギーの使用をすることで生じていると言える。

 

 

僕たちは誰しも知らず知らずのうちに低い視座で物事を考え、誰かを苦しめて生きている。これを完全になくすことは不可能だ。

 

でも、視座の違いにより他者を知らず知らずのうちに苦しめてしまっていることがあるという前提を持って生きることだけでも、社会はもっとよくなるんじゃないかと思う。

 

 

人類がロケットで宇宙空間へと飛び立つことができるようになった時、人類は地球を捨て去ってしまうのではないか?という論が叫ばれたそうだ。科学的ではなく、社会学的な側面で注目された。そして実際に人類が地球から出て宇宙空間へ行けるようになった時、その人はどう思ったか。

 

地球を初めて客観視した結果として、地球自体を愛おしい存在だと感じてむしろ環境問題などに強い関心を持つようになったそうだ。

 

これは物理的に視座をあげることで生じた事象だが、地球市民的な視座に立つことで思想が変わり、より良い社会を築いていけるという根拠の1つになると言えるはずだ。

 

 

 

僕がみんなが視座の高い社会がいいと思っているという話をした時に、こんなことを言われた。

 

「大衆とは愚かな存在で 、視座が低いものだ。だから、そうやって自己中に考える大衆がいっぱいいることを前提にした上で、そういう人がいてもうまくまわるように内包して仕組みを作ることが大事だ。」

 

 

 確かに言っていることはわかるし、自分が驕りたかぶっているんじゃないか、己のエゴなんじゃないかって思い、間違った思想なのかもしれないと思った。

 

 

でも、それは人類への諦めだ

 

 

人類は野生動物ではない。仏教でも六道輪廻で、人道はまだ成仏できていない道の1つとして描かれるが、畜生道よりも高い位置付けにある。自分の本能に流され切らずに生きていける可能性を秘めていることを暗示している。だから、きっとできるはず。

 

 

みんなの視座が上がれば、自分の理想の社会を皆が描くようになり、自分が何のために生きていくのかも考える。すべての人が自分の仕事や人生に誇りを持って生きる社会はこうして訪れるはずだ。すべての人々の視座をあげる大衆変革を起こしたい。

 

 

 

 

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