国志夢走

志を持った人で溢れ、夢に向かって走れる強い国にしたい。学生団体運営を通して学んだ組織やHRについて、書評や日々の内省を投稿。

組織から個人へのパワーシフト、高まるHR人材の価値

個人へのパワーシフトという言葉を聞いたことがあるだろうか?これからの時代を表すメガトレンドの1つである。

 

簡単に解説すると、今までは国や組織に権力が集中していたが、徐々に個人にも権力が移っていくということだ。

 

例えば昔はテレビなどのマスメディアによってのみ情報を発信していたが、今ではインターネットやSNSの台頭により一個人が発信できるようになっている。他にもまだ浸透仕切ってはいないがトークンの発行など個人で貨幣の発行に近いこともできるようになってきている。下の記事にも書いているので一度読んでみてほしい。

jackshima.hatenablog.com

 

このように個人へと力が集中してきている流れのことを個人へのパワーシフトと呼んでいる。これに伴って、世界的に都市への人口集中が加速し、都市に流入した個人の孤立化が発生していたりする。

 

 

もともとこれまでの日本では組織の論理が強く、協調的で組織の和を重視しなくてはならないという時代が長らくあった。終身雇用だったり年功上列だったりとずっと1つの組織で長く働くことが当たり前だったし、多少言いなりになったとしても我慢するのが普通だったわけだ。

従業員という言葉は付き従って作業をする構成員、なんとも組織に隷属的な単語ではないだろうか?(員という言葉についての解釈を少し書いている記事を参考程度に載せておく。)

jackshima.hatenablog.com

 

 

しかし、先ほど紹介した通り個人が情報収集も発信もできるような現代になり組織に属さずとも個人で稼ぐことができるようになった人がちらほら出てきている。今後もそんな人は増えてくるだろう。そうなると組織が個人を押さえつけていた関係性から組織と個人は対等、むしろ個人の方が選べる側になるという変化が起こってくる。引く手数多みたいな状態だ。

 

 

コミュニティという言葉を最近よく耳にする。

コミュニティ
①人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域、およびその人々の集団。地域社会。共同体。
 転じて、インターネット上で、共通の関心をもちメッセージのやりとりを行う人々の集まり。
 アメリカの社会学マッキーバー(R. M. MacIver)が定式化した社会類型の一。血縁・地縁など自然的結合により共同生活を営む社会集団

大辞林ではすでに②のネット上での集まりという意味も紹介されている。

簡単にコミュニティを形成することができるようになっているから、組織の数自体はどんどん増えてきているのではないかと予想している。ただ1つ1つの組織の構成人数は少なくなってきていると思う。労働市場が大きく変容していて、組織は大きくなりにくい時代を迎えているのだ。

 

 

こんな中でも既存の組織は変わらず優秀な人間を欲している。PJチームは大きくなりにくく、社会を揺るがすような大きなことを成し遂げていくには難しさがどんどん上がってくる状態にあると思う。そのため組織づくりがちゃんとできる組織しか、大きなことをなせるだけの人を集めることができない。

現在エンジニアやAIを扱える人間はIT企業において必要不可欠となっているが、それと同様に組織づくりができるようなHR人材の価値も高まっていくことは明らかだ。

個人の選択肢がこれだけ多様になっている中で、良い人材を大量に抱え続けて活動をしていける組織はごくわずかになっていく。それを叶えられるHR人材の需要が高まることは理解できるはずだし、組織は事業の成長は当然考えるが、組織状態の改善に対する重要性も考えざるをえない時代に突入していく。

 

 

優秀な人の数年間のコミットを約束してもらい、その後は個人の別の目的のために巣立っていくという新陳代謝のサイクルが非常に早い組織も増えてくるだろう。個人の自己実現がなせるし、組織の目的も達成できる。そんな組織づくりが求められる。

コミュニティの価値も1つの例だ。会社付き合いの飲み会はなんとなく嫌だ、そんな風潮がある中でもベンチャーは半ば家族のような付き合い方に回帰しているところは少なくない。またそんなところに惹かれる若者も少なくない。オフィスにカフェスペースを設けてたり、社員旅行で運動会したりなんてこともあったりする。

 

 

組織づくりは知識だけではできない。HR Techの領域が発達してきて、今までは定性的にしか把握できなかった人のモチベや情動を定量化して表せるようになってきた。どうすれば良い組織になるのかという解決策の提示は比較的しやすくなってきている。

 

 

ただ、その解決策を実行仕切ることが何よりも難しくテクノロジーではできないところだ。どうやって伝えていけば組織風土は浸透するのか?思いをぶつけて、組織と個人の目的を揃えるにはどうすればいいのか?こういった実行フェーズを組織と二人三脚になって実行できるHR人材がいないと、組織はいくらデータを解析したところで変わらない。

 

 

 

強い個人として生きていくためにも、所属する組織がなしたい大志をなせるようになるためにも、組織づくりの専門性を獲得することをすすめる。

実際に組織運営を経験することが組織づくりを学ぶ上での最短ルートだと思うので、まずは小規模でもいいので自分が運営する組織をもってみるといいかもしれない。

 

 

 

 

まとめ

  • 個人へのパワーシフトにより、組織より個人が強い時代になる
  • 組織は優秀な個人を獲得するべく、組織づくりに磨きをかける必要が出てくる
  • 組織づくりのできるHR人材の価値はかなり高まる
  • 解決策を出すだけでなく、それを実行しきることができる人材が求められる
  • 実際に組織運営をする経験を積んでおこう

 

 

 

 

 

 

 

 

原体験が無いことに悩んでいるあなたへ

壮大なVisionを描く人がいる。

 

なんでそんなに頑張れるんだってくらい行動して、世界を驚かす結果を出す人がいる。

起業家のインタビュー記事を見たら、過去に壮絶な原体験があったりする。その原体験から、解決したい社会課題や創りたい世界を持っていたりする。

 

"あなたが社会に対して感じている憤りは何か?感じている使命は何か?”

こんな問いにまっすぐに答えられる人が世の中を創っているのかもしれない。

 

 

 

僕は多分、これまでそこそこ幸せに生きてきた。だから社会に対する憤りや不満なんて正直なかった。でも、社会を変えようと動いているリーダーたちの姿はとても輝いていてただ憧れた。

 

 

僕はだからたまにこう恨み言を言った。

「なんで僕には原体験がないんだ。」

 

 

 

同じようなことに悩んだことがある人はいないだろうか?大多数の人には当てはまるものではないだろうが、一定数は存在していると踏んでいる。

もし命の危機に瀕するような体験があれば、僕は憧れるリーダーみたいになれるんじゃないか?そんなことを思ったことがある。リーダーは原体験をきっかけとして強い使命感を抱いたが、当然見えないたくさんの努力をしているからリーダーたりえている。けど、わかりやすい違いである、原体験を理由にしたくなったのだ。

 

 

 

でも、なんで僕はこんなに原体験がないことを嘆かなくちゃいけないのか。よくよく考えてみると変な話だ。特にいじめにあったこともなく、何不自由ない幸せな家庭で暮らしてこれたこれまでの人生に対して何を嘆く必要があるのか?あぁ、なんで不幸なことが1つもなかったのか...そんな悩みを持たなくちゃいけないなんて絶対におかしい。

 

 

 

 

これから個人の力がどんどん強くなってきて、僕はこうしたいんだという強い思いから起業する人や、社会への怒りを力に変えて活躍していく人が増えてくると思っている。

note.mu

このような記事も書かれているから、間違いない。

そうなるとなんで僕は原体験がないのかと悩む人も同時に増えてくるはずだ。

 

 

 

 

僕もその一人だったが、最近は考え方が変わってきてその悩みから抜け出すことができた。これからも増えていくだろう悩める人たちに、少しでも悩まずに済むような考え方を届けたい。

 

 

 

 

僕は最近こう思うのだ。 

原体験から社会を変えようとしている人に憧れたこと、それ自体が原体験。

 

だって今まで幸せに生きてきたことを少し恨んじゃうくらいなんだよ?

それだけ強烈に心を動かされたなら、それは十分に君の原体験だ。

だから、もうそこからはそのどうしようもなく憧れたっていう原体験を胸に頑張って前に進むしかない。君には原体験がある。大丈夫。

 

そんなの屁理屈じゃないかという人もいるかもしれない。でも僕が負けそうになる時、憧れてしまったんだから仕方ないじゃないかと踏ん張りを聞かせる時がある。だから原体験なんだ。そういうことにしとこうよ。

 

 

 

 

他にも、

原体験を大袈裟なものに捉えすぎていて、本当はあるのに気づかない。

 

これも結構あるんじゃないかなと思う。

別に、原体験って不幸なことだけじゃないはずだ。メディアで見かけるリーダーたちは強烈な負の原体験を持っていて、そんな情報ばかりが拡散されたり大きな声を持つから自然と強烈な負の原体験を持ってなくっちゃいけないって思ってしまう。

とても美しい演技を見て感動して、私もそうなりたいとダンサーになる人だっている。幸せや感動っていう正の感情だって原体験になる。

壮大なものじゃなくてもいい。当たり前になってしまった日常の中に、原体験はあるのかもしれない。些細なことだから、原体験なんて呼べない...そんなことを思う必要は全くないのだ。

 

 

原体験なんてきっと後付けだ。なんか知らんけど夢中にしてたら成功した。元をたどってみると、あーきっとこの経験が関係してるんだなって見えてくる。だから元からあるからできるとかできないとかじゃない。それでも気になるなら、ここまで述べた考え方で自分を安心させてあげよう。

 

 

 

 

最後に、

大きな悩みや原体験がないから社会を良くするすごいリーダーにはなれないなんていう世界は間違っている。普通の人でも憧れたなら社会を良くできる人にきっとなれるし、なれないと嫌だ!

 

...ほら、いつの間にか僕も社会に憤りを感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

MCP選挙で見えた数多の崇高さ

 

2018年9月12日、アイセックジャパンの代表を決める選挙が行われた。

コンセプトは ~諸君、狂い給へ~

コンセプト通りのクレイジーなオープニングとともに始まった。

www.youtube.com

オープニングMovieは上の音楽を使っていた。

アイセックは日本25大学に存在していて、各委員会のロールコールを曲に合わせながら軽快に、かつ力強く読み上げていく様はみんなの心を高揚させた。

 

僕は情動を何かとつぶやく癖があるので、その時にしていたツイートを時折挟みながら書き進めていく。

 

さて、そんなテンションマックスで始まったMCP選挙。

けれども答弁は切り替えてシリアスに、真面目に行うのだ。

たかだか学生団体の選挙なんてと思うかもしれないが、この選挙では理想の社会像から若者の可能性について、そして1,600人のメンバーの人生を背負った活動の方針とそれを実行していくリーダーを選ぶのだ。軽いものではない。

 

先に言っておくが、僕は方針がどうだとか、結果についてどうこうという記事を書きたいわけではない。後補人の二人や、有権者の各大学の委員会の代表の覚悟を持った姿勢、そしてそこに立ち会っていた僕をはじめとした参加者、そしてその空間に感じたものを伝えたいと思ったから記事を書いている。

 

まずは後補人の二人についてだ。彼らはしのぎを削りあい、アイセックへの愛や、どのようにして社会を変えるのか、若者にリーダーシップを届けるのかを語っていた。どれだけ怖ろしかろうとも、大人数の視線を感じ、背負う責任を一身に背負って最後まで戦い抜いていた。どれだけ勇気のあることだろうか。

 

ただ、勇気だけではいけない。次年度のアイセックに希望をもたせ、自身のリーダーシップを示すことにより有権者の信頼を勝ち取らなければならない。

有権者はその真偽のほどを確かめるべく、時に厳しい質問を投げかけるし、逆に後補人の人となりがわかるような引き出す質問を投げかけていった。 

 

すべての問いに理路整然と答えられていたわけではなく、二人の至らない点があらわになることも時折あった。覚悟と勇気を持って壇上に上がってくれている二人に対して、足りないものは足りないと突きつけなければならない。

 

土俵に上がったその勇気に対して敬意を払うことを忘れてはいけない。その上で、自身も組織をよくするため、より良い未来をつくるために、たとえ自分が答えを持っていなくとも、同じ土俵に立てていなくとも投げかけるべき指摘はある。それをしないことはもっと愚かな行為であり、自分の力不足を感じながらも、その心苦しさを持ちながら問いをぶつけていくのだ。僕はその心苦しさこそが敬意を払っている証だと思っているし、自分を省みることだと思う。こうして省みることで、次にはもっと自分自身が答えを持った状態で臨めるようになっていく。このスタンスを取ることが僕にとっての崇高さだ。

 

 こうして、自分ではまだ背負えないような責任や覚悟、持てていない勇気やリーダーシップを発揮した姿を見て「あり方」を学ぶのだ。

スキルやナレッジとは違い、あり方はどうも学びにくい。自分を変えることに他ならないからだ。それでも変えたい、ありたい姿でありたいと思わせてくれる背中がいくつもあることがこのアイセックの素晴らしいところだ。僕も誰かにとってのそんな背中の1つに慣れていたら本当に嬉しい。

 

ここまで後補人について注目してきたが、有権者である各委員会の代表に対しても考えさせられるものが多くあった。

彼らは

  • 自分自身という個人の見解
  • 率いている委員会にとってどうかの見解
  • アイセックジャパンという組織の総体としてどうかの見解

という3つの立場を有している。必ずしもこの3つから導かれる答えは同じとは限らない。文字通り身を引き裂かれそうな思いをしながら、意思決定をしたのだ。その痛みをしっかりと受け止め、突きつけるべきことを突きつけ、最後まで考え抜いて覚悟ある投票をしている彼らに心から敬意を表したい。

 

 そしてそんな責任ある票を投じる権利を有していることに感謝できていたら、言うことはもう何もない。素晴らしいリーダーたちだと思う。これは僕が思う有権者の崇高さだ。

 

そして最後にその場に立ち会った人々について。

厳正に行われた選挙の結果に対して、全員が納得しているわけではない。すごく喜ばしい人もいれば、悔しい思いをした人もいるだろう。それでも、自分の直感的な判断の声を無責任に投げつけるのではなく、一度自分の中で消化した上で前向きに未来志向で対話していこうという姿勢を貫いていたのだ。少なくとも僕の委員会の仲間達はそうだった。

社会では自分の感情を最優先して、視座の低い発言をする人はそこらじゅうにいる。誰しも自分が可愛いのだ、仕方のないところはある。

だけど、仲間達は違った。受け止めた上で前に進めるための建設さを皆が有していたあの空間は、僕にとっての誇りだ。

 

いろんな人が背伸びをしたり自分の不甲斐なさを棚に上げながら、理想に忠実であろうとしていた。

MCP選挙を通じて見えた数多の崇高さを僕は忘れない。

そんな崇高さを持った集団ならば、絶対に困難も乗り越えられる、そう思った。

 

アイセックはこれからも社会に挑戦し続け、もがいていける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

崇高さと世俗のジレンマ

 

いきなりだが、僕は崇高でありたい。

 

我ながら変な価値観だとは思うが、心からそうありたいのだ。自身過剰なのかもしれないし、自分に期待しすぎなのかもしれない。だけど、僕は僕の身を堕とすようなことはしたくないし自分の可能性を最大限追求したいと思っている。

「ノブレスオブリージュ」はとても好きな言葉だ。高貴なるものは持たざる者に分け与えよ。それこそが高貴なる所以である。この考え方にはとても気高さを感じる。気品や優雅さ、気高さなんて言葉もすごく好きな言葉だ。

「誇り」という言葉を聞くととてもアツくなる。アイセック神戸大学委員会の今年のDirectionはPrideだ。〜の矜持を持て、とかもすごく心を揺さぶられる。高校野球では、伝統校が母校の誇りをかけて戦うのがすごくかっこいい。先人たちの意思を受け継ぐみたいな歴史を感じるとやらなくてはと燃える。

 

これだけ思いを書き連ねたら、僕がどれだけ崇高さを良いものだと考えているかがわかってもらえたと思う。ただ、これだけ崇高でありたいと強く願うこと自体が実は崇高さから自身を遠のかせているのではないかと不安になることが多い。

 

なぜそう感じるかは"普通"と"特別"の関係性を例にあげることで説明できる。

 

特別でありたいと思ったことが誰しもあるだろう。ただ、特別な存在とは特別でありたいと願っていてなるものではないと思うのだ。少し抽象的な話になってしまうが、その人が想起する普通という基準値があってそこからどれだけ遠く離れているかで特別かどうかを定義するのが特別であろうとしている人の思考回路だ。しかし、本当に特別な存在とは普通と比較した延長線上にあるものではない。夢やしたいことは考えて捻りだしたり、持とうと思って持つものではないだろう。自然と持つものだ。夢と出会う確率を上げることはできるかもしれないが、夢を持たなきゃ持たなきゃと焦っていくほどに夢は遠のいていく感覚に近い。

 

ここまで考えてみて、「崇高であるかどうかは本人の努力いかんによるものではない」というひどい事実を突きつけられた気がした。

 

そういえば僕は先天的なものに惹かれる人間だった。

幼い頃から才能という言葉に惹かれ、僕はどんな才能を持っているのかということが気になっていた。才能がなければ、いくら努力しても人が持っている時間は等しく24時間で才能の差分を埋めることはできやしないのだと考えているような子供だった。努力が報われなかったという経験があったのも理由だが、もとから努力しまくって勝ちとるすトーリーよりもそつなくこなしてしまう方がかっこいいと思っていた。

 

漢字三文字の姓にも憧れを持っていた。来世は二階堂と名乗りたい。これは今でも思ってる笑。姓もまた基本的には変えることのできない授かったものだ。五十嵐とかもかっこいいよね。

 

家柄や身分、家系なんかもそうだ。平安貴族だったら良かったのにと考えたことは数知れず、総理大臣の息子として将来総理大臣を務め上げると期待されている人生を望んだ。そりゃ周囲の人にはうかがい知れない重圧やしんどさを抱えているんだとは思うし、実際自分がその立場になった時にどう思うかはわからない。でも今ははたからみるしかないし、羨ましいと思うから羨ましいのだ。ドラクエの勇者もそうだ。勇者に生まれ落ちたからこそ、人生をかけるにふさわしい世界を救うというmissionを与えられているしそこに向かってひたむきに進む人生の様は美しい。だから人々はこぞってドラクエをプレイし、疑似体験をしようとする。

 

そうやって人の使命をなぞったり、羨んだりするだけで満足できるのか?

 

僕に課せられた使命はなんだ?誰も教えてくれないから、僕はなるべく壮大で大きなものを背負っている存在だと思い込むしかない。低きに流れそうになった時、自分はそんなところで甘んじでいい存在なのか?いや違うだろと、自分で自分を奮い立たせるのだ。崇高でありたいと願って崇高であろうとする様は、なんとも俗っぽい。そんな自分に気づいて辟易する。崇高であった上で何をするかが大事なのに、崇高であることを目的化してしまう自分はなんとも俗っぽい。

 

でも願ってしまったんだから仕方ない。崇高さと泥臭さの両刀が必要なんだ。自分にはとても泥なんて見えなくて真っ白で輝いて見える崇高な人でも僕に見えない背中は泥まみれかもしれない。高校球児は真っ白なユニフォームでマウンドを守りきる完全無欠なエースがやっぱりかっこいいけど、泥にまみれながら力投を続けるエースが勝つことだってある。ボクシング金メダリストの村田選手は、綺麗な顔で勝たなくちゃチャンピオンじゃないと発言していた。彼の美学であり崇高さはそこにあるのだろう。でも顔を腫れ上がらせながらも勝利した時でも周囲の賛美の声は変わらない、むしろ一層増すかもしれない。

 

崇高かどうかなんて周囲の人は気にしちゃいないんだ。気にしてるのは自分自身。僕が崇高であることを僕が諦めない限り、僕はきっと崇高でいられるんだろう。その過程はなんとも泥臭く、世俗的でもっとも崇高さからは遠い様だけれど、崇高であろうとすることを諦めることに比べたら些細なことだ。やっと気持ちの整理がついた。

 

崇高さと泥臭さを兼ね備えた人であれ。

 

 

 

 

 

 

 

"家"と"屋"が気になった件

インターンの参加などで投稿期間が空いてしまいました。今回は先日感じた素朴な疑問をテーマにした記事を書きます。

 

今回のテーマはズバリ、家と屋の違いは何か?です。

 

ピンと来た方はもうわかったはず。

先日株式会社じげんという東証一部上場企業で社長が若くてイケメンで...とにかく勢いのあるITベンチャーインターンに参加してきました。

テーマは「事業をつくる力を養う」ということで普段組織について考えている僕は、右も左もわからず苦戦しました。結果は散々でしたが、基本的な事業の考え方から難しさや醍醐味までを感じ取れた気がします。事業も組織もどちらにも精通した人材になろうと決めました。

さて、そのインターンの話はまたするとしてメッセージで事業家になりませんか?という問いかけがあったんです。

「社会を変えて動かしてきたのはいつの時代も事業家と政治である。」

この言葉を聞いた時に、政治家も事業家も"家"がつく職業だと気づきました。それから家がつく職業とはどんな職業なのか、よく使われる"屋"とはどう違うのかを考察してみたくて仕方がなくなりました。

 

違いを探ってみよう

 

"家"のつく職業を列挙してみる

・事業家、起業家、政治家、音楽家、芸術家、投資家、作家etc...

 

"屋"のつく職業を列挙してみる

・八百屋、質屋、パン屋etc...

 

他の漢字でも職業の区分があることに気づいた。師、士、官、員である。

"師"のつく職業を列挙してみる

・道化師、医師、教師etc...

 

"士"のつく職業を列挙してみる

・消防士、弁護士、建築士行政書士、代議士etc...

 

"官"のつく職業を列挙してみる

・検察官、弁務官、警察官、裁判官、神官etc...

 

"員"のつく職業を列挙してみる

・教員、公務員、会社員、警備員、清掃員、審査員etc...

 

 

例示からの考察

さて、ある程度法則性は見えてきただろうか?多分厳密な使い分けはなされていない。ここまでの例をみてこう言えるのではないか?という仮説をいくつか立ててみた。

 

・"家"はその前の単語を生業として生きているプロフェッショナルに近い

→投資で生きる、芸術で生きる、音楽で生きる、政治で生きるなど...

 

・"屋"はその前の単語を売って生きてる人たち

→パンを得るなど。そこに専門性は感じ取りにくい、販売する場所がそのまま仕事として呼ばれるようになった?

 

・"師"は敬意を払う対象、先生のイメージ

→道化師ははずれ値で、教師も医師も僕らの祖父母世代がありがたがってる職業の人たちだと思う。医者も教師も先生と呼ばれている。

 

・"士"は資格を想起させる

→名前の列挙を見るだけで、東京アカデミーかな?って気がしてくる。資格を持ってして正当性を持つ職業に多く使われる言葉なのだと思う。

 

・"官"は大きなものに使えて職務を全うする高潔さが感じられる

→神官であれば大きな神という存在の元に、警察官も裁判官も正義のもとに公務を遂行していると言えるだろう。

 

・"員"は複数同じ役職の人がいるという前提を内包している

→教員、警備員、会社員のどれもが複数人の姿をイメージできる。組織の構成員という意味合いが付与されるからだと思う。

 

 

あなたの仕事はどの漢字ですか?

政治家を揶揄するときに政治屋と言ったりする。このような背景から家>屋という関係性を持っている人も多いだろう。教師と教員だと教師の方が偉そうだから師>員だとも言えるかもしれない。

特定の職業に対しての呼称はもう慣習になっているから、職業の貴賎を示すとは言えないと僕は思っている。

ただ仕事をする自分自身が、その仕事をどう捉えて働くかは重要だと考える。

別にあなたの仕事が清掃員だってパン屋だって、なんだっていい。自分自身の仕事に誇りを持っているのかどうか、ただそれを売るという状態ではないか、多くいるうちの一人として没個性になっていないか?

みんなが自分の仕事を"家"だと思って働いてさえいればそれで良いのだと思う。

パン家、清掃家、教育家なんだって結構。自分で名乗るのは自由だ。

 

 

 

 

 

 

【実践】組織と個人の目的のインテグレーション

今回は「個人の目的と組織の目的をいかに尊重しあって幸せに活動するのか」をテーマに記事を書くことにする。

実際に所属している団体の夏合宿で実施したコンテンツの流れに沿って紹介する

 

 

なぜ個人と組織の目的を考える必要があるのか?

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今回のテーマにおける前提となる考え方がこの図だ。当たり前のことのようで意外とちゃんと理解していないことが多いのではないだろうか?

 

僕はつい先月、この二つの目的をどちらも尊重しなければならないなと実感した場面に出くわした。

 

ある企業で僕はインターン(実際はインターンというよりはバイトに近いが、最初はそうだと思っていた)をすることが決まった。僕は所属団体で人事をしていることから人事や組織に関係する活動ができるインターンを探していて、そのような経験ができると聞きジョインすることになった。

この時、僕個人の目的は「組織について実践機会を積み学ぶこと」になる。しかし活動が始まってみると人事としての仕事とは程遠く、事業における一人のメンバーとしての活動が待っていた。事業を知らずに最初から人のマネジメントができないという意見はもっともであり、理解はしたが正直期待値のズレは大きかった。

こんな経緯がありモチベーションの低かった僕だが、事前ミーティングと事業に携わる経験を通して見方が変わった。活動しているメンバーが本気で良いパフォーマンスを発揮しようとしていて、顧客に全力で価値を届けようとしていることを目の当たりにしたからだった。この組織がしようとしていることには価値がある。そう信じることができた。それまでの僕は自分の目的ばかりを考えていて組織の目的に歩み寄ろうとしていなかったのだ。

僕が心変わりした理由はそれだけではない。この組織ではフロントまで行動指針や組織風土が浸透していたのだ。マネージャーがいなくともどうすればより良い結果を生むことができるのかを主体的に考えて実行していたし、グッドケースのシェアまで盛んに行われていた。

 

「レベルの高い組織だ」

 

そう感じたし、現場で活動する中でなぜそのレベルの高い組織状態が実現しているのかを学び取ることは自分の目的につながることがわかったのだ。他にも顧客に価値を届けたいという気持ちで活動するうちに自身のエトスが磨かれていく確かな実感があった。

 

この話をまとめると、

①最初は個人の目的しか見ていなかったが

②組織の目的を知ろうとしてみて共感する部分があり

③個人と組織の目的の両方から意義付けをした

ということになる。

この状態は組織の発展にも自身の成長にも寄与できるし、互いに尊重しあえる理想的な関係性が構築されていると言えるだろう。

僕はすべての組織と個人がこのような関係性でつながっている社会が理想だと思う。

 

 

どうこの状態を構築していくか

ここからは実際にどうやって個人の目的と組織の目的を共存させていくのかという話に入っていく。まず「個人と組織の目的のどちらも尊重すること」というグランドルールを確立することがかなり重要になってくる。

  • より良い関係性を築き、皆が幸せに活動するために欠かせない考え方である事
  • 人と人ならできるのに、人と組織になると急に考えづらくなっている事

この二点を中心に丁寧に説明した。

後者について具体的に記載すると、二人の人がいて自分はこんな事がしたい、相手は別のこんな事がしたいという話があるとお互いにどっちのニーズも満たせるような行動はないかと模索する事は自然にできると思う。

それが組織になると、押し付けられている感覚になったり、逆に自分の目的だけを貫き通そうとしてしまう事がよくある。組織の場合は口があるわけではないので主張をしないし、話し合いができるわけでもない。このような内容を伝えた。

 

その現象に対する工夫として、組織に人格をつけてみて成り切って考える事が有効だったりするのだ。下の写真はアイセックの秋国内総会での友人の写真だ。背中にいる人形がKBくん(KBは僕の所属する団体の略称)と名付けられていて、彼が組織だと置き換えてどんな事をしたいと思っているのかを組織目線で考えてみる事をした。

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こうして自分で組織の目的を定義する事で押し付けられているという認識は薄くなると思うし、バイアスを取り除いて考える事ができるのだ。

完成イメージは以下の図の通り。

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下の層から説明していく。

組織の魅力とはその組織が大事にしている価値観であったり、活動をしているうちに感じる良いと思うことが組織の魅力の層。

組織が目指していることや、成し遂げたいこと。存在意義になるようなものがMissionの層。

組織がつくりあげたい理想の社会やみたい光景がVisionにあたる。

 

この組織のピラミッドが完成したら今度は個人のピラミッドについて考察していく。詳しい考察の仕方はまた今度記載するので大まかな流れを紹介する。

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自分の過去を振り返り、共通する考えや決断などを元に自分の価値観を発見する。その発見した価値観から理想の社会を定義してVisionを策定する。その理想の社会をどうすれば実現できるのかを考えてその中でもっともしたいと思える打ち手を探すという演繹的な考察や、自分のしたいことはなにかを考えてみてそれを徐々に誰にどんな価値を与えるのかで合ったり規模感を広げて行くなどしてブラッシュアップする帰納的な考察を通して志を見つける。

 

ここまでで個人と組織の二つのピラミッドが完成した。次はその二つのピラミッドからあなたが組織で活動する目的を見出していく。

 図にすると以下の通り。

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青の目的を達成するには二つのピラミッドの様々な層で比較する必要がある。今自分はどの層においては共感できているのかであったり、目的が合致しているのか、合致してはいないが良いと思えるのか、はたまた相容れないのかを検証していく。

 

 

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自分が良いと思うことを組織も大事にしているのかを比較してみる。ここが合致する場合は大抵あなたにとって居心地がいい組織になっているはずだ。

 

 

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画像のように組織と個人どちらの目線にも立って考えることが大事だ。

赤の視点で考えることに慣れている分、緑の視点を忘れがちなので十分注意が必要である。

 

 さらに別の層で比較していく。

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この二つの図を説明すると、上は組織が目指しているものって確かにいいと思うよって状態で、下は組織が目指しているものって自分の目的にもかなり合致していてつながりが見えている状態になる。

下の場合はそもそも自分がつくりたい理想の社会やなしたいことがある程度見えていないと成り立たない。

会社の理念を聞いた時、なんかいいと思うけどそれ以上でもそれ以下でもないなんてことがあるのではないだろうか?その状態がまさしく上の状態である。悪いことではないのだが、深い共感をするにはまず自分の上位概念を固めて照らし合わせる必要があるのだ。

 

ここまでのステップを踏めば組織と個人の目的のインテグレーションは十分に考察できるだろう。もしも価値観と価値観の比較の時点で合わなくて、組織の目指すものがまあいいかなとも思えないのであればそれはあっていないということになると思う。

 

どちらの目的も尊重し合って高め合える個人と組織の関係性がいろんなところで生まれると良いなと思う。一つの組織が変わればその中の何人もの人の人生も変わるし、それがいくつもの組織に及べば社会が変わる。大袈裟でもなんでもなくそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

総会の意義とは ~二総を振り返って~

夏合宿の設計と参加などの理由から投稿期間が大きく空いてしまった。これからまた元のペースで発信していく。

 

さて、先日アイセック神戸大学委員会(僕が所属している学生NPO、略称KB)で第二回定例総会が行われた。主に行うことは活動計画のプラン及び予算案の承認、メンバーの入脱会承認である。株式会社ではないので組織の意思決定は株主総会ではなく、全メンバーを議決者とした定例総会(以後、総会)において決定する。

発言は発言権を付与されてからなど堅苦しい時間ではあるが、その分いい効果も多いと改めて感じた。当日を振り返りながら総会の意義を明らかにしていく。

 

 

最初は僕を含んだ経営層が各領域ごとのプランを話す時間がある。この総会という最高意思決定機関において活動計画の承認をもらわなければならないという制度が、経営層が活動計画をしっかりと考察する強制力をもたせている側面がある。特に一総ではYP(Year Plan)の承認があり、役職に就任して間もない能力として未熟な時期に追い込まれながらアウトプットを出すことが短期間での急成長を後押ししていると思う。

 

僕が今回話したのは後期の活動方針とその背景共有、そしてその計画を実行する自分自身の意気込みや思いについてだ。

jackshima.hatenablog.com

この記事で書いているような自分の理想を話したり、その理想と今の活動がどうつながっているのかについて話させてもらった。この「自身の理想と活動のつながり」は大きなテーマとなり、夏合宿において4時間越えのセッションをつくることになるきっかけになった。この内容についても後日記載することとする。

 

 

次はプロジェクトを率いるプロジェクトリーダーの活動計画の承認の時間だ。プロジェクトリーダーごとに語ることは様々だったが、皆感謝と苦労、後悔などいろんな感情を持っているようだった。特にメンバーと経営層の間で板挟みになりながらも、リーダーとしてあり続けるためにもがき苦しんできたことがよく伝わった。

1年前、自分も同じような胸中を打ち明けて泣いたことを覚えている。悔しくて辛い複雑かつなんとも居心地の悪い時間だった。

だからこそ今年はプロジェクトリーダーがこんな思いをせずに済むように支えていきたいと思っていたのにできなかった不甲斐なさに少し凹んだりもしていた。メンバーを愛し続けて活動し続けるプロジェクトリーダーに敬意を持って見方として寄り添っていきたいと改めて思った。

 

 

普段ではなかなか明かされることのない感情をみんなが同じ場をもって知ることができるのは、リーダーとメンバーの心を通わせることにつながる。

U理論で言うとプレゼンテーションにみんなは釘付けになることでダウンローディングからシーイングへと進み、次第に相手の立場になって考えるプレゼンシングを引き起こす。毎回総会の後の打ち上げで、行動の変容を誓ってUの谷を超えるメンバーがいるのは確かだ。

(U理論は以下の記事を参照)

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その後にあった退会者のプレゼンテーションはとても印象に残っている。

退会する理由はそれぞれだが、一年間の区切りは三総であり二総で退会するひとは途中で何か他にフルコミットしたいものが見つかったり、団体の価値観と合わないなどが多い。三総の場合は学年による引退のひとが過半数を占める。

 

ある一人のメンバーの話が特に印象深かった。

「自分にはもったいないくらいあったかい場所で。」

もちろん悩みやしんどいこともあっただろうが、それだけしっかりとした居場所を作り上げたプロジェクトをすごく尊敬している。

KBという一つの大きな組織の中に、いろんな居場所があって知らないところですごく感謝したり悩んだりしている。皆が口を揃えて言うのは組織の人の存在への感謝だ。貴重な大学生活の時間を使って活動してくれているからこそ心から良かったありがとうと言ってされる場所であり続けて欲しい。

 

このようなメンバーのプレゼンテーションは各々が団体での活動に向き合わせてくれる。

 

ともにこのKBで活動することは無くなっても、このつながりが大学生かつだけのものではなく、ニュースやメディアでそれぞれの活躍を知り、自分も頑張らないとなと励まされたり、時をしばらくして再開した時に今なそうとしていることや志を変わらず語り合える、そんなKB Mafiaであり続けたいと思った。

 

一年という時間に区切りをつけ、自然とそれまでを省みる。そして感情は揺り動かされ、次の区切りへと思いを固める。

 

 

総会の意義をまとめ直すと

  • 活動計画をしっかりと考察する強制力をもたせること
  • リーダーとメンバーの心を通わせること
  • 各々が団体での活動に向き合うきっかけとなること
  • 区切りをつけて省み、次の区切りへと思いを固めること

になった。

 

次の区切りとなる三総まで、思いを新たにまた進んでいこう。

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