成長とは、「視座が上がること」である
突然だが、僕は頑張っている人に安全地帯から石を投げる日本の文化が嫌いだ。
この日本という国はリーダーが損をしやすい国だと思う。
上記の動画でも落合陽一が言っていたが、人よりも何十倍も努力した人が得るお金は二倍でないと認めないとか、苦労の伴わない成功は認めないみたいな風潮が根強い。この動画では未来の世代に向けて日本財政の問題を解決していかなくちゃいけないという警鐘を鳴らしている。また次世代を担っていく若者に対する覚悟も求められていて、自分自身に訴えかけられている感覚を強く覚えた。ぜひ見てほしいと思うので引用した。
『(日本人)』という書籍においても、日本人は人一倍権力を嫌う民族であるということが主張されている。(詳しくは以下のブログに書いているので参照してほしい)
ここまでの導入で僕が社会に対して覚えている違和感は伝わったと思う。頑張り損な社会はよろしくないという話だ。人一倍みんなのことを考えて、頭を悩ませ責任も背負いながら頑張っているリーダーが、浅慮な大衆に石を投げられ傷つけられるのは理不尽だと思っている。
タイトルにもある通り、僕は成長の定義を「視座が上がること」としている。
ここからはなぜ僕がそう考えているのかと、その成長を全人類が遂げることで理想の社会は実現するはずだという主張をする。
成長とはなんだろう?
言葉の定義を探る際、僕はよく語源に立ち戻って考えてみることをする。「長所に成る」と書いて成長なので、たまに聞くことはあるが短所の改善とは成長ではないと昔の人は考えていたのかもしれない。長所になることだけが成長なのかも知れない。
世間一般で言われる成長とは、できないことができるようになるといったスキルの向上がイメージされるだろう。就活などで、「この会社に入れば成長できますよ。」なんて会話がよくされると思う。この場合における成長とは、社会の大多数が潰しがきくと思われる保証や保険になるようなものの向上を指していると思う。かつては資格の習得だったかもしれないし、今なら「プログラミングができますよ」とか「事業の作り方がわかりますよ」とか、「マーケティングを学べる」だとかなのかもしれない。
あとは数字の上昇も想起される。経済成長や業績の向上などは数字の上昇という意味の成長だ。
このようなスキルやナレッジの習得も間違いなく成長の1つだが、マインドの成長というものもあると思う。具体例をあげると、許容範囲が広がる、挑戦できるようになるなど。僕はこのようなマインドの成長こそが真の成長だと思っている。
...そんなことはわかっている、当然じゃないかという声が聞こえてきそうだ。
でも、現実を見てみるとマインドの成長を考え切ることはできていないように思う。
例を出そう。成長に密接な関わりを持つものとして教育がある。教育って単に勉強をできるようにすることではないような気がするだろう。でも、実際に教育の成長は点数に落ち着くものが出てきそうになるよね。家庭教師のアルバイトをしていてもそう感じる場面は多々ある。
視座が上がることが成長だと述べたが、視座が上がるとはどういうことだろう?
視座
物事を見る姿勢や立場。ー「人道主義的な視座で発言する。」
この立場をなるべく引き上げて考えれるようになることが視座が上がることである。いろんな人の立場になって考えてみることができるということだ。
先日高野山にて宿坊に参加したのだが、そこで教えてもらった言葉に言い換えると認識の範囲を拡大するということも近しいだろう。
この社会は視座が上がっていないが故に数多くの問題が起こっている。日本に焦点を当ててみれば、多額な借金を背負っている債務大国であるにもかかわらず未来の世代のことを考えずに先延ばしにする意思決定が存在している。バイト先ではアルバイトと社員が対立していたり、大学では教授も生徒も互いに理解し合わない。
視座の足りない最たる例は環境問題だ。環境問題は目先の経済発展にとらわれて地球の持続可能性を超えたエネルギーの使用をすることで生じていると言える。
僕たちは誰しも知らず知らずのうちに低い視座で物事を考え、誰かを苦しめて生きている。これを完全になくすことは不可能だ。
でも、視座の違いにより他者を知らず知らずのうちに苦しめてしまっていることがあるという前提を持って生きることだけでも、社会はもっとよくなるんじゃないかと思う。
人類がロケットで宇宙空間へと飛び立つことができるようになった時、人類は地球を捨て去ってしまうのではないか?という論が叫ばれたそうだ。科学的ではなく、社会学的な側面で注目された。そして実際に人類が地球から出て宇宙空間へ行けるようになった時、その人はどう思ったか。
地球を初めて客観視した結果として、地球自体を愛おしい存在だと感じてむしろ環境問題などに強い関心を持つようになったそうだ。
これは物理的に視座をあげることで生じた事象だが、地球市民的な視座に立つことで思想が変わり、より良い社会を築いていけるという根拠の1つになると言えるはずだ。
僕がみんなが視座の高い社会がいいと思っているという話をした時に、こんなことを言われた。
「大衆とは愚かな存在で 、視座が低いものだ。だから、そうやって自己中に考える大衆がいっぱいいることを前提にした上で、そういう人がいてもうまくまわるように内包して仕組みを作ることが大事だ。」
確かに言っていることはわかるし、自分が驕りたかぶっているんじゃないか、己のエゴなんじゃないかって思い、間違った思想なのかもしれないと思った。
でも、それは人類への諦めだ
人類は野生動物ではない。仏教でも六道輪廻で、人道はまだ成仏できていない道の1つとして描かれるが、畜生道よりも高い位置付けにある。自分の本能に流され切らずに生きていける可能性を秘めていることを暗示している。だから、きっとできるはず。
みんなの視座が上がれば、自分の理想の社会を皆が描くようになり、自分が何のために生きていくのかも考える。すべての人が自分の仕事や人生に誇りを持って生きる社会はこうして訪れるはずだ。すべての人々の視座をあげる大衆変革を起こしたい。
幸せとは、「傾き」である。
「幸せとはなんですか?」
こう問われた時、どう答えるだろうか?
お金持ちになること?美味しいものを食べること?新垣結衣と結婚すること?
まあ多分どれも確かに幸せなんだろうけど、どれもピンとこない。
僕がたどり着いた答えは、「傾き」だ。
どういうことか察しのいい人はわかっているかもしれないが、具体例を交えて説明していこうと思う。
例1
外は32度の真夏日、汗だくで駅前のショッピングモールに入ってみるとクーラーが効いていてすごくひんやりして幸せだった。
例2
今日は行列のできるラーメン屋に行くことにした。50min並んで、やっとの思いでありつけたラーメンは少しぬるく、店主の態度も横柄だった。二度と来るものか。
例3
昨日は友人が面白かったから見てみなよとオススメされた映画を見に行った。友人のオススメ通り、結構面白くていい時間を過ごせた。
ここまで3つの例を出してみた。1つ目は暑い空間から一転して涼しい空間へと入ったことで感じた喜び。2つ目は高い期待値をもってたのに、期待はずれだったことで感じた失望。3つ目は期待通りの結果を得られた満足。
ここまで書くともうオチはわかったと思うが、1つ目のような感覚こそが幸せであるという話だ。わかりやすく温度にしたが、3の例が面白くないだろうなと思ってみた映画がかなり面白かった時をイメージしてもらうとわかるだろう。
前の状態から良い方向への変化があること、その傾きがあることこそが幸せなのだ。
幸せというと、どこかたどり着くものをイメージしがちである。
図にするとこんな感じ。
だから人は〇〇大学に入ることを目的化してしまったり、何かものを手に入れること自体が幸せだと勘違いしてしまうのである。
確かに大学に受かった瞬間は幸せかもしれないし、ものを所有した瞬間は幸せかもしれないが、その幸せは一時的でありずっと続くものではないのだ。
この図のように、常に傾きがあることこそが幸せなのである。
人間は変化を嫌う生き物であり、現状維持をしていたいと思ってしまう。
確かに今に満足しようとすればできるかもしれない。その3の例のように、期待にそのまま答えるものを享受し続けることでも満足することはできる。ただ、それを超える幸せには到達できないのだ。
目標を達成する幸せもあるが、その目標を達成しようとして日々傾きを生み出していること自体が幸せなのである。
僕は生まれつき、悩みがちな人間だ。楽観的に考えることが苦手で、いつもいろんなことについて頭を悩ませている。少し言葉は悪いが、もっとバカだったらこんなに毎日悩んで苦しい思いをせずに幸せに過ごせるだろうにな...なんてことをよく思っていた。
実は同じようなことを考えたことがある人もいるんじゃないだろうか。
でも今では悩んでいること、悩めることは幸せだと思えるようになってきた。
だから悩みがちな人は一生満たされない、たどり着かないと悲観するのではなく、常に傾いていられるなんて幸せだなぁと捉え直してほしい。
だって理想へと向かって進んで行こうとしている証拠なのだから。
無駄に悲しくなることはない。むしろ楽しみながら進んで行こう。
人間は一生勉強だという言葉を聞いたことがある。生涯学習という言葉も昨今よく耳にする。小学生の頃、僕は勉強が嫌いだったから早く勉強しなくてもよくなりたいなんて思っていた。だから生涯学習な世界なんて最悪じゃないか...なんて考えていた。
でも傾きこそが幸せなのだとしたら、大学をでて就職し、仕事もリタイアして老年期に入ったとしても、学んでいこうとする姿勢はすごく大事なことがわかるだろう。
退職して何もしなくなることで不幸せになるのだ。生涯勉強し続けられることが幸せなんだと思う。
僕が最近活動をしていて幸せだなと思うことを考えてみた。
ある役割を担っていてその役割を成し遂げ切って、その任から解放される時にすごく幸せを感じることがわかった。
そんなに解放されたいなら最初からしなくてはいいじゃないか!という声があるかもしれないがそれは大きく違うのだ。解放というこの傾きこそが幸せを増幅させているのだ。
だから、忙しい...って言いながらも頑張っている人に対して、「それじゃあしなきゃいいじゃんか、忙しいアピールすんなよ。」って批難をするのではなく、「こうやって負荷をかけながら頑張った後の達成感ってすごく幸せだよね、わかるわ」という言葉をかけてあげられると優しいなあなんて思う。
僕の好きな漫画の宇宙兄弟でも同様の主張がなされていた。
「なぜネクタイを締めるのかって?それは、仕事が終わった時に緩めるためだ。」
宇宙兄弟の登場人物であるピコが、自分が設計した宇宙飛行士の帰還船のパラシュートが開き、無事に帰還できるかどうかの場面に立ち会いに、管制室へと向かう日の朝のセリフである。
ネクタイをしたくないのならば(仕事をしたくないのならば)、最初からしなきゃいいじゃないか。って話ではないのだ。
仕事を成し遂げ切って、その緊張から解放されるから幸せだし達成感を得られるのだ。
責任とは重く苦しい辛いものではあるが、それと同時に僕たちに幸せの傾きを授けてくれるありがたいものなのである。
生涯学習して僕は生きていたいし、そんな世の中こそが幸せだと信じている。
組織から個人へのパワーシフト、高まるHR人材の価値
個人へのパワーシフトという言葉を聞いたことがあるだろうか?これからの時代を表すメガトレンドの1つである。
簡単に解説すると、今までは国や組織に権力が集中していたが、徐々に個人にも権力が移っていくということだ。
例えば昔はテレビなどのマスメディアによってのみ情報を発信していたが、今ではインターネットやSNSの台頭により一個人が発信できるようになっている。他にもまだ浸透仕切ってはいないがトークンの発行など個人で貨幣の発行に近いこともできるようになってきている。下の記事にも書いているので一度読んでみてほしい。
このように個人へと力が集中してきている流れのことを個人へのパワーシフトと呼んでいる。これに伴って、世界的に都市への人口集中が加速し、都市に流入した個人の孤立化が発生していたりする。
もともとこれまでの日本では組織の論理が強く、協調的で組織の和を重視しなくてはならないという時代が長らくあった。終身雇用だったり年功上列だったりとずっと1つの組織で長く働くことが当たり前だったし、多少言いなりになったとしても我慢するのが普通だったわけだ。
従業員という言葉は付き従って作業をする構成員、なんとも組織に隷属的な単語ではないだろうか?(員という言葉についての解釈を少し書いている記事を参考程度に載せておく。)
しかし、先ほど紹介した通り個人が情報収集も発信もできるような現代になり組織に属さずとも個人で稼ぐことができるようになった人がちらほら出てきている。今後もそんな人は増えてくるだろう。そうなると組織が個人を押さえつけていた関係性から組織と個人は対等、むしろ個人の方が選べる側になるという変化が起こってくる。引く手数多みたいな状態だ。
コミュニティという言葉を最近よく耳にする。
コミュニティ①人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域、およびその人々の集団。地域社会。共同体。② 転じて、インターネット上で、共通の関心をもちメッセージのやりとりを行う人々の集まり。
大辞林ではすでに②のネット上での集まりという意味も紹介されている。
簡単にコミュニティを形成することができるようになっているから、組織の数自体はどんどん増えてきているのではないかと予想している。ただ1つ1つの組織の構成人数は少なくなってきていると思う。労働市場が大きく変容していて、組織は大きくなりにくい時代を迎えているのだ。
こんな中でも既存の組織は変わらず優秀な人間を欲している。PJチームは大きくなりにくく、社会を揺るがすような大きなことを成し遂げていくには難しさがどんどん上がってくる状態にあると思う。そのため組織づくりがちゃんとできる組織しか、大きなことをなせるだけの人を集めることができない。
現在エンジニアやAIを扱える人間はIT企業において必要不可欠となっているが、それと同様に組織づくりができるようなHR人材の価値も高まっていくことは明らかだ。
個人の選択肢がこれだけ多様になっている中で、良い人材を大量に抱え続けて活動をしていける組織はごくわずかになっていく。それを叶えられるHR人材の需要が高まることは理解できるはずだし、組織は事業の成長は当然考えるが、組織状態の改善に対する重要性も考えざるをえない時代に突入していく。
優秀な人の数年間のコミットを約束してもらい、その後は個人の別の目的のために巣立っていくという新陳代謝のサイクルが非常に早い組織も増えてくるだろう。個人の自己実現がなせるし、組織の目的も達成できる。そんな組織づくりが求められる。
コミュニティの価値も1つの例だ。会社付き合いの飲み会はなんとなく嫌だ、そんな風潮がある中でもベンチャーは半ば家族のような付き合い方に回帰しているところは少なくない。またそんなところに惹かれる若者も少なくない。オフィスにカフェスペースを設けてたり、社員旅行で運動会したりなんてこともあったりする。
組織づくりは知識だけではできない。HR Techの領域が発達してきて、今までは定性的にしか把握できなかった人のモチベや情動を定量化して表せるようになってきた。どうすれば良い組織になるのかという解決策の提示は比較的しやすくなってきている。
ただ、その解決策を実行仕切ることが何よりも難しくテクノロジーではできないところだ。どうやって伝えていけば組織風土は浸透するのか?思いをぶつけて、組織と個人の目的を揃えるにはどうすればいいのか?こういった実行フェーズを組織と二人三脚になって実行できるHR人材がいないと、組織はいくらデータを解析したところで変わらない。
強い個人として生きていくためにも、所属する組織がなしたい大志をなせるようになるためにも、組織づくりの専門性を獲得することをすすめる。
実際に組織運営を経験することが組織づくりを学ぶ上での最短ルートだと思うので、まずは小規模でもいいので自分が運営する組織をもってみるといいかもしれない。
まとめ
- 個人へのパワーシフトにより、組織より個人が強い時代になる
- 組織は優秀な個人を獲得するべく、組織づくりに磨きをかける必要が出てくる
- 組織づくりのできるHR人材の価値はかなり高まる
- 解決策を出すだけでなく、それを実行しきることができる人材が求められる
- 実際に組織運営をする経験を積んでおこう
原体験が無いことに悩んでいるあなたへ
壮大なVisionを描く人がいる。
なんでそんなに頑張れるんだってくらい行動して、世界を驚かす結果を出す人がいる。
起業家のインタビュー記事を見たら、過去に壮絶な原体験があったりする。その原体験から、解決したい社会課題や創りたい世界を持っていたりする。
"あなたが社会に対して感じている憤りは何か?感じている使命は何か?”
こんな問いにまっすぐに答えられる人が世の中を創っているのかもしれない。
僕は多分、これまでそこそこ幸せに生きてきた。だから社会に対する憤りや不満なんて正直なかった。でも、社会を変えようと動いているリーダーたちの姿はとても輝いていてただ憧れた。
僕はだからたまにこう恨み言を言った。
「なんで僕には原体験がないんだ。」
同じようなことに悩んだことがある人はいないだろうか?大多数の人には当てはまるものではないだろうが、一定数は存在していると踏んでいる。
もし命の危機に瀕するような体験があれば、僕は憧れるリーダーみたいになれるんじゃないか?そんなことを思ったことがある。リーダーは原体験をきっかけとして強い使命感を抱いたが、当然見えないたくさんの努力をしているからリーダーたりえている。けど、わかりやすい違いである、原体験を理由にしたくなったのだ。
でも、なんで僕はこんなに原体験がないことを嘆かなくちゃいけないのか。よくよく考えてみると変な話だ。特にいじめにあったこともなく、何不自由ない幸せな家庭で暮らしてこれたこれまでの人生に対して何を嘆く必要があるのか?あぁ、なんで不幸なことが1つもなかったのか...そんな悩みを持たなくちゃいけないなんて絶対におかしい。
これから個人の力がどんどん強くなってきて、僕はこうしたいんだという強い思いから起業する人や、社会への怒りを力に変えて活躍していく人が増えてくると思っている。
このような記事も書かれているから、間違いない。
そうなるとなんで僕は原体験がないのかと悩む人も同時に増えてくるはずだ。
僕もその一人だったが、最近は考え方が変わってきてその悩みから抜け出すことができた。これからも増えていくだろう悩める人たちに、少しでも悩まずに済むような考え方を届けたい。
僕は最近こう思うのだ。
原体験から社会を変えようとしている人に憧れたこと、それ自体が原体験。
だって今まで幸せに生きてきたことを少し恨んじゃうくらいなんだよ?
それだけ強烈に心を動かされたなら、それは十分に君の原体験だ。
だから、もうそこからはそのどうしようもなく憧れたっていう原体験を胸に頑張って前に進むしかない。君には原体験がある。大丈夫。
そんなの屁理屈じゃないかという人もいるかもしれない。でも僕が負けそうになる時、憧れてしまったんだから仕方ないじゃないかと踏ん張りを聞かせる時がある。だから原体験なんだ。そういうことにしとこうよ。
他にも、
原体験を大袈裟なものに捉えすぎていて、本当はあるのに気づかない。
これも結構あるんじゃないかなと思う。
別に、原体験って不幸なことだけじゃないはずだ。メディアで見かけるリーダーたちは強烈な負の原体験を持っていて、そんな情報ばかりが拡散されたり大きな声を持つから自然と強烈な負の原体験を持ってなくっちゃいけないって思ってしまう。
とても美しい演技を見て感動して、私もそうなりたいとダンサーになる人だっている。幸せや感動っていう正の感情だって原体験になる。
壮大なものじゃなくてもいい。当たり前になってしまった日常の中に、原体験はあるのかもしれない。些細なことだから、原体験なんて呼べない...そんなことを思う必要は全くないのだ。
原体験なんてきっと後付けだ。なんか知らんけど夢中にしてたら成功した。元をたどってみると、あーきっとこの経験が関係してるんだなって見えてくる。だから元からあるからできるとかできないとかじゃない。それでも気になるなら、ここまで述べた考え方で自分を安心させてあげよう。
最後に、
大きな悩みや原体験がないから社会を良くするすごいリーダーにはなれないなんていう世界は間違っている。普通の人でも憧れたなら社会を良くできる人にきっとなれるし、なれないと嫌だ!
...ほら、いつの間にか僕も社会に憤りを感じている。
MCP選挙で見えた数多の崇高さ
2018年9月12日、アイセックジャパンの代表を決める選挙が行われた。
コンセプトは ~諸君、狂い給へ~
コンセプト通りのクレイジーなオープニングとともに始まった。
オープニングMovieは上の音楽を使っていた。
アイセックは日本25大学に存在していて、各委員会のロールコールを曲に合わせながら軽快に、かつ力強く読み上げていく様はみんなの心を高揚させた。
僕は情動を何かとつぶやく癖があるので、その時にしていたツイートを時折挟みながら書き進めていく。
緊張と興奮が入り混じった、独特の雰囲気。会場は心なしか少し暑い。 pic.twitter.com/yqD9dXo5GH
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
さて、そんなテンションマックスで始まったMCP選挙。
けれども答弁は切り替えてシリアスに、真面目に行うのだ。
たかだか学生団体の選挙なんてと思うかもしれないが、この選挙では理想の社会像から若者の可能性について、そして1,600人のメンバーの人生を背負った活動の方針とそれを実行していくリーダーを選ぶのだ。軽いものではない。
先に言っておくが、僕は方針がどうだとか、結果についてどうこうという記事を書きたいわけではない。後補人の二人や、有権者の各大学の委員会の代表の覚悟を持った姿勢、そしてそこに立ち会っていた僕をはじめとした参加者、そしてその空間に感じたものを伝えたいと思ったから記事を書いている。
まずは後補人の二人についてだ。彼らはしのぎを削りあい、アイセックへの愛や、どのようにして社会を変えるのか、若者にリーダーシップを届けるのかを語っていた。どれだけ怖ろしかろうとも、大人数の視線を感じ、背負う責任を一身に背負って最後まで戦い抜いていた。どれだけ勇気のあることだろうか。
ただ、勇気だけではいけない。次年度のアイセックに希望をもたせ、自身のリーダーシップを示すことにより有権者の信頼を勝ち取らなければならない。
有権者はその真偽のほどを確かめるべく、時に厳しい質問を投げかけるし、逆に後補人の人となりがわかるような引き出す質問を投げかけていった。
すべての問いに理路整然と答えられていたわけではなく、二人の至らない点があらわになることも時折あった。覚悟と勇気を持って壇上に上がってくれている二人に対して、足りないものは足りないと突きつけなければならない。
表舞台に立つ人間に責任を安全地帯から他責一辺倒で問いかけるのは好きじゃない。有名人を叩くのと似た感じの構図になっちゃうのはすごくやだし、これからリーダーとなる人を貶めるような話はしたくはない。が、棚に上げてでも突きつける必要がある。棚にあげるときは自分も省みること。
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
土俵に上がったその勇気に対して敬意を払うことを忘れてはいけない。その上で、自身も組織をよくするため、より良い未来をつくるために、たとえ自分が答えを持っていなくとも、同じ土俵に立てていなくとも投げかけるべき指摘はある。それをしないことはもっと愚かな行為であり、自分の力不足を感じながらも、その心苦しさを持ちながら問いをぶつけていくのだ。僕はその心苦しさこそが敬意を払っている証だと思っているし、自分を省みることだと思う。こうして省みることで、次にはもっと自分自身が答えを持った状態で臨めるようになっていく。このスタンスを取ることが僕にとっての崇高さだ。
アイセックは素晴らしい場所だ。
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
お前のありたい姿はなんだ?それなのか?と何度も問いかけられる。
ありたい姿はスキルと違って磨きにくいものだからこそ、何度も反芻して問い直す。誰かの背中がいつも示してくれる。今湧いている感情はそのままに大切に。心を動かしてくれた2人に最大限の敬意を。
こうして、自分ではまだ背負えないような責任や覚悟、持てていない勇気やリーダーシップを発揮した姿を見て「あり方」を学ぶのだ。
スキルやナレッジとは違い、あり方はどうも学びにくい。自分を変えることに他ならないからだ。それでも変えたい、ありたい姿でありたいと思わせてくれる背中がいくつもあることがこのアイセックの素晴らしいところだ。僕も誰かにとってのそんな背中の1つに慣れていたら本当に嬉しい。
ここまで後補人について注目してきたが、有権者である各委員会の代表に対しても考えさせられるものが多くあった。
彼らは
- 自分自身という個人の見解
- 率いている委員会にとってどうかの見解
- アイセックジャパンという組織の総体としてどうかの見解
という3つの立場を有している。必ずしもこの3つから導かれる答えは同じとは限らない。文字通り身を引き裂かれそうな思いをしながら、意思決定をしたのだ。その痛みをしっかりと受け止め、突きつけるべきことを突きつけ、最後まで考え抜いて覚悟ある投票をしている彼らに心から敬意を表したい。
インディアンは7世代先まで考えて意思決定をしている。(資源の活用について)
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
未来の世代のために全体最適の意思決定をするのか、私益をファーストに考えて意思決定するのか。
高い視座で決断したいが、その視座に立った上で正当な判断をするのは非常に難しい。
人のやりたいを応援する組織でありたいし、でも守るべき責任もあるし。51:49の意思決定をできることに最大限の感謝と敬意を持って。
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
そしてそんな責任ある票を投じる権利を有していることに感謝できていたら、言うことはもう何もない。素晴らしいリーダーたちだと思う。これは僕が思う有権者の崇高さだ。
そして最後にその場に立ち会った人々について。
安易な批判や共感、喜びに走らず、しっかりといろんな人の思いを受け止めた上で未来志向で話を進めていこう。そういう前提を、確認せずとも取れているKBだったのが何よりも嬉しかった。これでこそ、リーダーだ。
— Jack@AIESEC神大副代表 (@kiseijack) September 12, 2018
厳正に行われた選挙の結果に対して、全員が納得しているわけではない。すごく喜ばしい人もいれば、悔しい思いをした人もいるだろう。それでも、自分の直感的な判断の声を無責任に投げつけるのではなく、一度自分の中で消化した上で前向きに未来志向で対話していこうという姿勢を貫いていたのだ。少なくとも僕の委員会の仲間達はそうだった。
社会では自分の感情を最優先して、視座の低い発言をする人はそこらじゅうにいる。誰しも自分が可愛いのだ、仕方のないところはある。
だけど、仲間達は違った。受け止めた上で前に進めるための建設さを皆が有していたあの空間は、僕にとっての誇りだ。
いろんな人が背伸びをしたり自分の不甲斐なさを棚に上げながら、理想に忠実であろうとしていた。
MCP選挙を通じて見えた数多の崇高さを僕は忘れない。
そんな崇高さを持った集団ならば、絶対に困難も乗り越えられる、そう思った。
アイセックはこれからも社会に挑戦し続け、もがいていける。
崇高さと世俗のジレンマ
いきなりだが、僕は崇高でありたい。
我ながら変な価値観だとは思うが、心からそうありたいのだ。自身過剰なのかもしれないし、自分に期待しすぎなのかもしれない。だけど、僕は僕の身を堕とすようなことはしたくないし自分の可能性を最大限追求したいと思っている。
「ノブレスオブリージュ」はとても好きな言葉だ。高貴なるものは持たざる者に分け与えよ。それこそが高貴なる所以である。この考え方にはとても気高さを感じる。気品や優雅さ、気高さなんて言葉もすごく好きな言葉だ。
「誇り」という言葉を聞くととてもアツくなる。アイセック神戸大学委員会の今年のDirectionはPrideだ。〜の矜持を持て、とかもすごく心を揺さぶられる。高校野球では、伝統校が母校の誇りをかけて戦うのがすごくかっこいい。先人たちの意思を受け継ぐみたいな歴史を感じるとやらなくてはと燃える。
これだけ思いを書き連ねたら、僕がどれだけ崇高さを良いものだと考えているかがわかってもらえたと思う。ただ、これだけ崇高でありたいと強く願うこと自体が実は崇高さから自身を遠のかせているのではないかと不安になることが多い。
なぜそう感じるかは"普通"と"特別"の関係性を例にあげることで説明できる。
特別でありたいと思ったことが誰しもあるだろう。ただ、特別な存在とは特別でありたいと願っていてなるものではないと思うのだ。少し抽象的な話になってしまうが、その人が想起する普通という基準値があってそこからどれだけ遠く離れているかで特別かどうかを定義するのが特別であろうとしている人の思考回路だ。しかし、本当に特別な存在とは普通と比較した延長線上にあるものではない。夢やしたいことは考えて捻りだしたり、持とうと思って持つものではないだろう。自然と持つものだ。夢と出会う確率を上げることはできるかもしれないが、夢を持たなきゃ持たなきゃと焦っていくほどに夢は遠のいていく感覚に近い。
ここまで考えてみて、「崇高であるかどうかは本人の努力いかんによるものではない」というひどい事実を突きつけられた気がした。
そういえば僕は先天的なものに惹かれる人間だった。
幼い頃から才能という言葉に惹かれ、僕はどんな才能を持っているのかということが気になっていた。才能がなければ、いくら努力しても人が持っている時間は等しく24時間で才能の差分を埋めることはできやしないのだと考えているような子供だった。努力が報われなかったという経験があったのも理由だが、もとから努力しまくって勝ちとるすトーリーよりもそつなくこなしてしまう方がかっこいいと思っていた。
漢字三文字の姓にも憧れを持っていた。来世は二階堂と名乗りたい。これは今でも思ってる笑。姓もまた基本的には変えることのできない授かったものだ。五十嵐とかもかっこいいよね。
家柄や身分、家系なんかもそうだ。平安貴族だったら良かったのにと考えたことは数知れず、総理大臣の息子として将来総理大臣を務め上げると期待されている人生を望んだ。そりゃ周囲の人にはうかがい知れない重圧やしんどさを抱えているんだとは思うし、実際自分がその立場になった時にどう思うかはわからない。でも今ははたからみるしかないし、羨ましいと思うから羨ましいのだ。ドラクエの勇者もそうだ。勇者に生まれ落ちたからこそ、人生をかけるにふさわしい世界を救うというmissionを与えられているしそこに向かってひたむきに進む人生の様は美しい。だから人々はこぞってドラクエをプレイし、疑似体験をしようとする。
そうやって人の使命をなぞったり、羨んだりするだけで満足できるのか?
僕に課せられた使命はなんだ?誰も教えてくれないから、僕はなるべく壮大で大きなものを背負っている存在だと思い込むしかない。低きに流れそうになった時、自分はそんなところで甘んじでいい存在なのか?いや違うだろと、自分で自分を奮い立たせるのだ。崇高でありたいと願って崇高であろうとする様は、なんとも俗っぽい。そんな自分に気づいて辟易する。崇高であった上で何をするかが大事なのに、崇高であることを目的化してしまう自分はなんとも俗っぽい。
でも願ってしまったんだから仕方ない。崇高さと泥臭さの両刀が必要なんだ。自分にはとても泥なんて見えなくて真っ白で輝いて見える崇高な人でも僕に見えない背中は泥まみれかもしれない。高校球児は真っ白なユニフォームでマウンドを守りきる完全無欠なエースがやっぱりかっこいいけど、泥にまみれながら力投を続けるエースが勝つことだってある。ボクシング金メダリストの村田選手は、綺麗な顔で勝たなくちゃチャンピオンじゃないと発言していた。彼の美学であり崇高さはそこにあるのだろう。でも顔を腫れ上がらせながらも勝利した時でも周囲の賛美の声は変わらない、むしろ一層増すかもしれない。
崇高かどうかなんて周囲の人は気にしちゃいないんだ。気にしてるのは自分自身。僕が崇高であることを僕が諦めない限り、僕はきっと崇高でいられるんだろう。その過程はなんとも泥臭く、世俗的でもっとも崇高さからは遠い様だけれど、崇高であろうとすることを諦めることに比べたら些細なことだ。やっと気持ちの整理がついた。
崇高さと泥臭さを兼ね備えた人であれ。
"家"と"屋"が気になった件
インターンの参加などで投稿期間が空いてしまいました。今回は先日感じた素朴な疑問をテーマにした記事を書きます。
今回のテーマはズバリ、家と屋の違いは何か?です。
ピンと来た方はもうわかったはず。
先日株式会社じげんという東証一部上場企業で社長が若くてイケメンで...とにかく勢いのあるITベンチャーのインターンに参加してきました。
テーマは「事業をつくる力を養う」ということで普段組織について考えている僕は、右も左もわからず苦戦しました。結果は散々でしたが、基本的な事業の考え方から難しさや醍醐味までを感じ取れた気がします。事業も組織もどちらにも精通した人材になろうと決めました。
さて、そのインターンの話はまたするとしてメッセージで事業家になりませんか?という問いかけがあったんです。
「社会を変えて動かしてきたのはいつの時代も事業家と政治である。」
この言葉を聞いた時に、政治家も事業家も"家"がつく職業だと気づきました。それから家がつく職業とはどんな職業なのか、よく使われる"屋"とはどう違うのかを考察してみたくて仕方がなくなりました。
違いを探ってみよう
"家"のつく職業を列挙してみる
・事業家、起業家、政治家、音楽家、芸術家、投資家、作家etc...
"屋"のつく職業を列挙してみる
・八百屋、質屋、パン屋etc...
他の漢字でも職業の区分があることに気づいた。師、士、官、員である。
"師"のつく職業を列挙してみる
・道化師、医師、教師etc...
"士"のつく職業を列挙してみる
"官"のつく職業を列挙してみる
・検察官、弁務官、警察官、裁判官、神官etc...
"員"のつく職業を列挙してみる
・教員、公務員、会社員、警備員、清掃員、審査員etc...
例示からの考察
さて、ある程度法則性は見えてきただろうか?多分厳密な使い分けはなされていない。ここまでの例をみてこう言えるのではないか?という仮説をいくつか立ててみた。
・"家"はその前の単語を生業として生きているプロフェッショナルに近い
→投資で生きる、芸術で生きる、音楽で生きる、政治で生きるなど...
・"屋"はその前の単語を売って生きてる人たち
→パンを得るなど。そこに専門性は感じ取りにくい、販売する場所がそのまま仕事として呼ばれるようになった?
・"師"は敬意を払う対象、先生のイメージ
→道化師ははずれ値で、教師も医師も僕らの祖父母世代がありがたがってる職業の人たちだと思う。医者も教師も先生と呼ばれている。
・"士"は資格を想起させる
→名前の列挙を見るだけで、東京アカデミーかな?って気がしてくる。資格を持ってして正当性を持つ職業に多く使われる言葉なのだと思う。
・"官"は大きなものに使えて職務を全うする高潔さが感じられる
→神官であれば大きな神という存在の元に、警察官も裁判官も正義のもとに公務を遂行していると言えるだろう。
・"員"は複数同じ役職の人がいるという前提を内包している
→教員、警備員、会社員のどれもが複数人の姿をイメージできる。組織の構成員という意味合いが付与されるからだと思う。
あなたの仕事はどの漢字ですか?
政治家を揶揄するときに政治屋と言ったりする。このような背景から家>屋という関係性を持っている人も多いだろう。教師と教員だと教師の方が偉そうだから師>員だとも言えるかもしれない。
特定の職業に対しての呼称はもう慣習になっているから、職業の貴賎を示すとは言えないと僕は思っている。
ただ仕事をする自分自身が、その仕事をどう捉えて働くかは重要だと考える。
別にあなたの仕事が清掃員だってパン屋だって、なんだっていい。自分自身の仕事に誇りを持っているのかどうか、ただそれを売るという状態ではないか、多くいるうちの一人として没個性になっていないか?
みんなが自分の仕事を"家"だと思って働いてさえいればそれで良いのだと思う。
パン家、清掃家、教育家なんだって結構。自分で名乗るのは自由だ。