国志夢走

Visionを描き、自身の仕事や人生に誇りを持った人であふれ返る国をつくりたい。「みんながプロフェッショナルに出演できる」そんな社会が理想です。

崇高さと世俗のジレンマ

 

いきなりだが、僕は崇高でありたい。

 

我ながら変な価値観だとは思うが、心からそうありたいのだ。自身過剰なのかもしれないし、自分に期待しすぎなのかもしれない。だけど、僕は僕の身を堕とすようなことはしたくないし自分の可能性を最大限追求したいと思っている。

「ノブレスオブリージュ」はとても好きな言葉だ。高貴なるものは持たざる者に分け与えよ。それこそが高貴なる所以である。この考え方にはとても気高さを感じる。気品や優雅さ、気高さなんて言葉もすごく好きな言葉だ。

「誇り」という言葉を聞くととてもアツくなる。アイセック神戸大学委員会の今年のDirectionはPrideだ。〜の矜持を持て、とかもすごく心を揺さぶられる。高校野球では、伝統校が母校の誇りをかけて戦うのがすごくかっこいい。先人たちの意思を受け継ぐみたいな歴史を感じるとやらなくてはと燃える。

 

これだけ思いを書き連ねたら、僕がどれだけ崇高さを良いものだと考えているかがわかってもらえたと思う。ただ、これだけ崇高でありたいと強く願うこと自体が実は崇高さから自身を遠のかせているのではないかと不安になることが多い。

 

なぜそう感じるかは"普通"と"特別"の関係性を例にあげることで説明できる。

 

特別でありたいと思ったことが誰しもあるだろう。ただ、特別な存在とは特別でありたいと願っていてなるものではないと思うのだ。少し抽象的な話になってしまうが、その人が想起する普通という基準値があってそこからどれだけ遠く離れているかで特別かどうかを定義するのが特別であろうとしている人の思考回路だ。しかし、本当に特別な存在とは普通と比較した延長線上にあるものではない。夢やしたいことは考えて捻りだしたり、持とうと思って持つものではないだろう。自然と持つものだ。夢と出会う確率を上げることはできるかもしれないが、夢を持たなきゃ持たなきゃと焦っていくほどに夢は遠のいていく感覚に近い。

 

ここまで考えてみて、「崇高であるかどうかは本人の努力いかんによるものではない」というひどい事実を突きつけられた気がした。

 

そういえば僕は先天的なものに惹かれる人間だった。

幼い頃から才能という言葉に惹かれ、僕はどんな才能を持っているのかということが気になっていた。才能がなければ、いくら努力しても人が持っている時間は等しく24時間で才能の差分を埋めることはできやしないのだと考えているような子供だった。努力が報われなかったという経験があったのも理由だが、もとから努力しまくって勝ちとるすトーリーよりもそつなくこなしてしまう方がかっこいいと思っていた。

 

漢字三文字の姓にも憧れを持っていた。来世は二階堂と名乗りたい。これは今でも思ってる笑。姓もまた基本的には変えることのできない授かったものだ。五十嵐とかもかっこいいよね。

 

家柄や身分、家系なんかもそうだ。平安貴族だったら良かったのにと考えたことは数知れず、総理大臣の息子として将来総理大臣を務め上げると期待されている人生を望んだ。そりゃ周囲の人にはうかがい知れない重圧やしんどさを抱えているんだとは思うし、実際自分がその立場になった時にどう思うかはわからない。でも今ははたからみるしかないし、羨ましいと思うから羨ましいのだ。ドラクエの勇者もそうだ。勇者に生まれ落ちたからこそ、人生をかけるにふさわしい世界を救うというmissionを与えられているしそこに向かってひたむきに進む人生の様は美しい。だから人々はこぞってドラクエをプレイし、疑似体験をしようとする。

 

そうやって人の使命をなぞったり、羨んだりするだけで満足できるのか?

 

僕に課せられた使命はなんだ?誰も教えてくれないから、僕はなるべく壮大で大きなものを背負っている存在だと思い込むしかない。低きに流れそうになった時、自分はそんなところで甘んじでいい存在なのか?いや違うだろと、自分で自分を奮い立たせるのだ。崇高でありたいと願って崇高であろうとする様は、なんとも俗っぽい。そんな自分に気づいて辟易する。崇高であった上で何をするかが大事なのに、崇高であることを目的化してしまう自分はなんとも俗っぽい。

 

でも願ってしまったんだから仕方ない。崇高さと泥臭さの両刀が必要なんだ。自分にはとても泥なんて見えなくて真っ白で輝いて見える崇高な人でも僕に見えない背中は泥まみれかもしれない。高校球児は真っ白なユニフォームでマウンドを守りきる完全無欠なエースがやっぱりかっこいいけど、泥にまみれながら力投を続けるエースが勝つことだってある。ボクシング金メダリストの村田選手は、綺麗な顔で勝たなくちゃチャンピオンじゃないと発言していた。彼の美学であり崇高さはそこにあるのだろう。でも顔を腫れ上がらせながらも勝利した時でも周囲の賛美の声は変わらない、むしろ一層増すかもしれない。

 

崇高かどうかなんて周囲の人は気にしちゃいないんだ。気にしてるのは自分自身。僕が崇高であることを僕が諦めない限り、僕はきっと崇高でいられるんだろう。その過程はなんとも泥臭く、世俗的でもっとも崇高さからは遠い様だけれど、崇高であろうとすることを諦めることに比べたら些細なことだ。やっと気持ちの整理がついた。

 

崇高さと泥臭さを兼ね備えた人であれ。

 

 

 

 

 

 

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