日本人はなぜ花火大会に行きたがるのか?
先日、10年ぶりに花火大会に学生団体の後輩たちとともに行ってきた。 すごく楽しかったので行ってよかったなぁと思ったのだが、どうしてこんなに満足しているのか、これだけ多くの人が集まる一大イベントになるのかが気になったので考えてみた。
花火大会がなぜいいと思うのかって、ある程度の人数が同じ景色を見ていることによる「共感覚」もあるのかなと思う。一人で見て感動するよりも、いいなぁって思ってる感情を共感している場自体の幸せが上乗せされるイメージ。
— Jack@アイセック神大副代表 (@kiseijack) August 18, 2018
同じような効果が働いている場所として、ライブとか合宿効果もそれかな。
これは花火大会の帰りの電車内での僕のツイートだ。
"共感覚"が味わえるから花火大会に行きたいのではないかという考察だ。
調べてみたところ共感覚とは文字に色を感じたりと通常の感覚とは別の感覚も作用する知的感覚のことを言うらしいので、言葉が間違っていた。
同じ感情を共有しているという感覚や一体感を伝えたかった。
人混みで鬱陶しいという側面もあるが、同じ景色をみんなが見つめて感動しているという空間そのものに付加価値があるということだ。
ライブもアーティストが好きだと思う人が集まり、パフォーマンスを見て感動する。見知らぬ隣の人も集中してステージを見ている。人間は共感を求めるし共感で喜ぶ生き物だ。
マズローの五段階欲求でいう承認の欲求と近いのだと思う。
花火大会の魅力は一体感だけではない。
花火自体の美しさについてはどうだろう。 なんで花火を綺麗だと感じるのだろうか?
歴史を遡ると、江戸時代から花火大会は存在したそうだ。これだけ長い間続くということは花火というものの特性に日本人が好む理由があるはず。
三つの理由が思い浮かんだ。
- "間"を愛すること
- 花を想起させる儚さ
- 夏という季節に合わさっていること
"間"を愛すること
"間"を愛することとはどういうことか。沈黙をよしとする下地が日本にはある。
用例を見てみよう
筆者の文字の背景に含まれる感情に思いをはせることを行間を読むという。他にも間が悪い、居間、世間など様々な言葉に間は用いられている。
共通するのは間をただの空白とせず、その中に意味合いを感じ取っていることである。
沈黙は思索に耽ることができる価値あるものとしているのだ。
花火は打ち上がってから火花が広がるまでに間がある。その間には静寂があり、固唾を飲んで見つめるという楽しみがあるのだ。中国には爆竹という火薬を用いた一種の文化があるが、間など皆無だ。日本人は花火を派手にぶっ放せば喜ぶわけではないのだ。
花を想起させる儚さ
花火というだけあり、当然花と同じ共通点を持つ。花のような形をするのもあるが、散ってしまうという側面に着目したい。
日本人は桜をこよなく愛するが、それは時間が限られているという刹那性に魅力を感じているからだ。美は永遠には続かない、その儚さや刹那性が日本人を魅了する。
花火も綺麗に打ち上げられたと思ったらすぐに煙を残して消えてしまう。最後に残る煙の感じが好きだという人もたくさんいるのではないだろうか。線香花火が徐々に垂れてきて落ちるのも間と儚さが相まって心を動かす。
蝉もその寿命の短さ故に儚さの象徴といえるだろう。松尾芭蕉の俳句に「静かさや、岩にしみ入る、蝉の声」とあったり、空蝉という言葉があったりと数ある虫の中でも関心を寄せていたことがわかるだろう。
花火には日本人が愛する儚さを含んでいるのだ。
夏という季節に合わさっていること
日本において季節を象徴する行事は愛される傾向にあるといえる。俳句は季語という四季を司る言葉を必ず入れていなければならないし、食物の旬について考えていたりと季節の移り変わりに敏感なのが日本人だ。春のお花見、秋のお月見は季節を象徴するイベントであり、現代でも見られる行事である。
花火大会はなぜ夏の象徴になることができたのか。
- お盆の存在
- 気温
- 儚さロス
が夏に花火が行われ続ける理由だ。
お盆は先祖があの世から帰ってくるという古くからの慣習であり、送り火という先祖を送り返す行事が存在する。
実はこの送り火と同じ意味を花火も持っている。だから慣習的にお盆のある夏に花火は打ち上げられるのだ。
気温は言わずもがなだ。暗くならなきゃ花火は見えない、夜でも寒くないようにと考えれば夏に白羽の矢が経つ。
最後に儚さロスだが、これは完全に僕の想像である。先ほど桜の儚さについて述べた。夏は青々と草木が育つ刹那性とは縁遠い季節だ。秋冬は草木は枯れていくため感じることができるだろうが、夏は少ない。だからこそ蝉が着目されるのかもしれない。この儚さの足りない季節に花火を打ち上げることで儚さロスを解消しようと考えたのではないだろうか?
ここまで紹介したような理由から夏=花火という季節の象徴を勝ち取ったのだ。
最後の切り口としてイマドキな理由を挙げる。それは花火大会がステータス化されるコンテンツの地位を確立しているからというものだ。
かつて美意識についてのブログを書いたのだが、これを書こうと思ったきっかけであるweekly ochiaiで山口周さんがゲストで来られた回の発言が花火でも当てはまることがわかった。
落合陽一が「美術館に行ってもパシャパシャ写真ばっかり撮って、ちっともちゃんと鑑賞していない人が多い」と発言していた。
ここには"〇〇という絵をみたい"のではなく、"〇〇という絵を見たことがある"というステータスを求めている心理が表れている。
インスタ映えなどは最たる例だろう。花火大会は、夏には当然行くべき行事であるというステータス化が確立されているのだ。
クリスマスには恋人とデートに行かなくてはならないなんて文化は日本固有の変わった文化である。しかし、実際いけないとなんか不愉快な気分になるし(僕は去年ぼっちマスでした)メディアもこぞって特集している。このように日本にはステータス化されたものが幾つかあり、その強制力はすごいものがあるのだ。特に今年は「平成最後の夏」という強烈なテーマが追加されているためさらに拍車がかかったのではないだろうか?
ここまでいろいろ考察したけれど、綺麗だったし楽しかったから本当に満足している。日本人に生まれてよかった。
まとめ
なぜ日本人は花火大会を好むのか?
・共通の感覚、一体感を感じられることが魅力
・間が存在すること
・儚さを感じられること
・夏の風物詩になることができたこと
・花火大会がステータス化を確立していること