異文化理解とは何か
最近耳にすることが増えてきた「異文化理解」という言葉。メディアでも言及されることがよくある。
なんか社会性の高い言葉のようで、SDGsが流行ってきているのと似た印象を覚えている。
良い考え方だろうから流行っていくことはいいことなのだが、とりあえずこれ言っとけばわかってるっぽいとか社会性高いだろうって腹の底が透けて見えるときが嫌いだ。
かく言う僕もはっきりと異文化理解とは何かを説明できないので、異文化理解ってなんやねんってことを考察していきたい。
専門家でもなんでもない素人なりに、納得のいく自分の解を探してみる。
目次
異文化理解の歴史
異文化の対象
理解するとは
異文化理解の先にあるもの
異文化理解の歴史
異文化理解という言葉はいつ頃から使われ始めたのだろうか?
最近つくられた言葉で流行り出したものなのか、昔から存在していたがクローズアップされたものなのか?
調べてみたが、なかなか難しい。素人な僕が簡単に語れるようなものではない。わかったことは異文化理解という言葉の歴史は浅いということだ。
類似する言葉として、「多文化共生」「異文化コミュニケーション」「グローバリゼーション」などもヒットした。
ここまでの調査から仮定するに、外国語教育の重要視、インターネットの発展や多国籍企業の登場によるグローバル化の促進、労働人口減少による移民受け入れの必要性etc...
これらの出来事が異文化理解という言葉を取り上げさせている背景にありそうだ。もっと詳しく知りたい方は論文などをいくつか読んでみてほしい。
異文化の対象
前章の歴史を踏まえると、異文化の対象とは外国にまつわるものになりそうだ。文化は国と切り離せないものだという考えがあれば「異文化=外国 」は腑に落ちやすいのかもしれない。
男女だって異文化だしなんなら身の回りのものは全て何から何まで異文化だ!という話によく行き着きがちだが、異文化理解という言葉の登場背景を考えるとこれは拡大解釈だ。
日本国内においても例えば関西と関東で文化が違うという事例はあげられるだろうし、間違いなく異なる文化で異文化だ。
だが、異文化理解のテーマにはこれらは入ってこない。派生して関係してきたり応用できたりはもちろんするだろうが。
マジックワード化しがちだが、異文化の部分については外国にまつわるものと定義するのが整理しやすいと結論づけた。
理解するとは
異文化を少し整理したところで次は「理解」という言葉についてだ。個人的に異文化理解という言葉を聞いたときに引っかかるのはこの「理解」の部分だ。
なぜ理解をチョイスしたのか、そもそも理解とは何を指すのか?
まず理解という言葉を聞いて連想したのが、マーケティングの考え方だ。
AIDMAとか聞いたことがあると思う。めっちゃざっくりいうと認知段階→感情段階→行動段階のフェーズで人は購買行動をとるというもの。
あとは理解→納得→共感っていう流れの考え方。
理解とはただそうであることを知ることで、感情も伴うものが納得、その上でアクションを起こすという一連の流れが存在する。
となると、異文化理解は「へぇ〜そんな考え方があるのか」「君はそう思うんだね」って段階を指すことになる。
国にまつわる違いを違いとして認知することだ。
異文化理解の先にあるもの
なぜ異文化納得じゃないのか?なぜ異文化共感じゃないのか?
僕の行き着いた答えは、
「違いを違いとして認識する知識もないから、まずはそこからやらなきゃいけない!」
という説だ。
そりゃ違いを認め合い、分かち合って共に歩んでいけるならその方がいいだろう。だが足し算ができない人に微積分をやらすのは無茶なのと一緒で、物事には順序がある。
異文化理解がある程度下地として出来上がった先にはどんな光景があるのだろう?
NESTという海外インターンシッププログラムは全ての国の人をあったかく包みこむ日本をつくるという目標を掲げている。
このように問題意識を持って動いている人たちは、すでに異文化理解の先を見据えていることがわかる。
感情的にも受け入れて共に行動していく世界は、線引きが減っている。内と外を区分する線が曖昧になっていく。そうして混ざり合って彩られていく社会が待っているんじゃないかな。
まだ僕も理解の段階にいる一人で納得や共感まで至った時の光景を具体的に想像することができないけれど、なんかいい。そんな気がしてきた。
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