【ポーランド①】アウシュビッツ強制収容所に訪れた事実を人生に刻むこと。
リアルタイムはモロッコのティトゥアン。
だいぶ北のほうの街で、白い街として知られている。
この街にも旧市街(メディナ)があってその中の一つの宿に泊まったのだが、迷宮で本当に迷った。道が入り組んでる上にGPSも機能しないからだ。
ルート案内通りに最短距離を行こうとせずに、わかりやすい道順を辿るのが結果的に早い。これぞまさしく急がば回れだった。
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それでは本編へ。
ポーランドにきた理由、それはアウシュビッツ強制収容所を見学したかったからだ。
見学希望者はまずクラコフという街を目指すことになる。
ポーランド南部で第三の都市といったところだろうか。
先の大戦の戦火を逃れ、古い建造物の残る美しい街だ。
そのクラコフバスで一時間以上移動してアウシュビッツに到着する。
僕はプラハからクラコフに到着した翌早朝に向かった。
まずはクラコフの街の観光について先に、そのあとにアウシュビッツ見学について綴ろうと思う。
先ほど述べたとおりクラコフは古い建造物が残る街だ。
大戦ではオーストラリアに含まれていたエリアらしい(今日あったポーランド人が教えてくれた)
街の中心にはだだっ広い広場があり、銅像やら教会がずらっと並んでいる。
煉瓦造りの建物が多くて重厚感がある。
クラクフを一言で表すとすれば「どこか物憂げな美しい街」だろうか。
この一言で表すとすればはシリーズ化していこうと思う。笑
物価はヨーロッパの中ではかなり安いほうで、通貨はズウォティ。
1ズウォティ=¥27だ。
確か一泊800円で泊まれたように記憶している。
ポーランド料理はピエロギが一番有名だ。
他にも色々あるんだろうけど、ピエロギが定番だと思う。
ピエロギは餃子に似た料理で、中の具材にバリエーションがあるので色々試してみるといいだろう。
僕のお気に入りはチーズポテト。これと一緒にビールを飲むのが幸せだった。
zywiecという銘柄のビールがとても美味しくて、安かったのでオススメ。
ヨーロッパの旅で飲んできた中でも一番のお気に入りだ。
ここまで弾丸で駆け抜けてきたが、物価も落ち着いたおかげでこの街には2泊することができた。
まず、反省として準備が足りなかったなと思う。
見学のツアーに日本語ガイドがあり、中谷さんという方が唯一の日本人公認ガイドなのだという。
一週間前くらいからメールを送るなどしてお願いするのが良いだろう。
僕は旅程をギリギリまで立てれていなかったのと、調べ始めるのが遅かったので依頼することができなかった。
調べてみると無料で見学する方法があったりもするのだが、個人的にはしっかりとガイドを中谷さんに依頼するのがいいと思う。
朝七時、バスターミナルを出発するバスに乗り込んだ。
これは始発の次の便で、始発に乗ろうと思ったが逃した。
チケットをあらかじめ予約しておけば問題ないだろうが、僕は当日券を入手する必要があり、列に並ぶ時間短縮のために早く出発した。
ここも準備不足だ。
バスに乗っている間は事前に保存していた参考になるような記事を何本か読み込んでいた。
なんとバスに同い年の日本人大学生カップルが乗ってきた。
到着したのが8時半過ぎ。それでもすでに長蛇の列ができていた。
さっき乗り合わせた日本人の彼らと話をしながら待ち時間を潰した。
一時間半以上待って、ようやくチケットを購入することができた。
10:15~の英語ガイドツアーに参加できた。だいたい1,500円。
乗り合わせたカップルは運悪く、英語のツアーの上限人数が残り1で断念。
僕の後の時間にあるポーランド語のやつに参加していた。
英語の次のが11:30~とかだったし、どうせあまり聞き取れないからとのこと。
ツアーを利用しなければ見学すらできないので仕方ないことだと思う。
荷物検査を終えた後に受付で音声ガイドを受け取る。
イヤホンから先導してくれるガイドの声が聞こえるようになっている。
背の高い渋めのおじさんが担当だ。
リスニングテストで苦手なタイプの声で
(女の人は聞きやすいけど、少しこもった低い声が難しいよね...)
恥ずかしながらあまり聞き取ることができなかった。
それでもいくつか理解できたことを頼りにレポートしていこうと思う。
まず入り口がここ。
Bの文字が上下反転で取り付けられており、そこに収容者のささやかな反抗があったとされている。
この地は夏でもパーカーを着てなお肌寒かった。
より劣悪で衣服もままならず、さらに冬だった場合どれほど過酷かは想像に難くないだろう。
まっすぐ進んで14棟へと入る。
ここでヨーロッパの広範囲から収容者が集められてきたことを知る。
まさかギリシャからも連行しているとは驚きだった。
他にもおびただしい数の毒ガスの空き缶、収容者の遺品が保管されていた。
この物量が凄惨さを物語っている。
具体的に想像することを脳が無意識に拒否している、そんな感覚がした。
これを一人一人の人間が所有していたのだと理解はすれど実感が湧かなかったのだ。
棟を出ると石で作られた壁がある。
ここは収容者が銃殺された場所だ。犠牲者を悼む献花が添えられている。
この後ガス室も見学してツアーは終わった。
この後無料で運行されている輸送バスに乗って、ベルケナウ収容所へと向かった。
第一、第二とナンバリングされている収容所を総称してアウシュビッツと呼ぶことが多いのだろうか?
とにかくもう一箇所見学できるところがあるので忘れずに。
こちらの光景はよく見たことがあるのではないだろうか?
収容者をまるで家畜のようにぎゅうぎゅうに詰め込んだ列車が線路に乗ってここへ行き着く。
途中でレールが分かれるのだが、そこですぐに殺される人と労働させる人とを仕分けるのだ。
ここまでが見学の紹介となる。
ここからは僕自身の感想や学びを記したい。
まず上述したとおり、準備不足でガイドを十分に聞きとることもできなかった。
それでも自分なりに理解し、感じ取った中でいくつか違和感を覚えたことがある。
それが度々耳にしたprisner(囚人)という単語だ。
言葉のイメージは白黒の囚人服を着ている罪を犯した者といった感じ。
ただ収容者はユダヤ人であっただけで、何の罪を犯したわけでもない。
イメージと異なるため、prisnerという言葉を耳にするたびにモヤっとした。
Victimとかだとしっくりきたんだと思う。
途中文章で殺されるという言葉を使ったが、元々は処刑されると書いていた。
これも刑に処すって、その刑は正しいのか?といった違和感から言葉をストレートではあるが置き換えさせて貰った。
人類はこんな残虐な行為ができるのかと失望した。
敵をつくりまとめる、支配するというのは共通する事柄だ。
たしかに敵かもしれないが大前提として同じ人間である、侵してはならない権利がある、持つべきリスペクトはある。
これらを心得ておかないと、人はいとも簡単に大小あれど同じ行いをしてしまうのだろう。
「平和や安全のありがたみを若い世代は忘れている、わかっていない。」
この指摘は的を得ていると思う。
平和について、すでにある程度達成されていると思っている。
人々の可能性を最大限に発揮するベクトルへと目が行きやすい。
平和は達成されるものというより、常に崩してはならない追求し続ける基盤となるものなのだと思う。当たり前は当たり前じゃない。
それか見えている範囲が狭いかのどっちかだろう。
鈍ったアンテナは過ちを繰り返させうる。
だがそれと同時に見学を通していくつかの感謝、責任そして希望を感じた。
感謝とは、この負の遺産を管理して風化させずに繋いできてくれた先人に対して。
僕は見学をすると決めた時から、自発的に記事を読むなどして情報を調べた。
これは自発的と書いたが、どこか環境がそうさせたところもあると思う。
そもそもアウシュビッツを見学しようと思うことすらなかったかもしれない。
この行動を取らせてくれた環境と先人に感謝だ。
最後に責任について。
十字架を背負いにきてるのだ。
希望も感じた。
希望はこれだけ多くの訪問者がいるという事実に対してだ。
学ぼうという意思がある人間がいるということは、のちに記す責任を少なからず感じる人が増えるということであり、悲劇が繰り返されづらくなるはずだからだ。
今回は旅ブログになってからは久しぶりの少し熱くて哲学的な記事になった。
ぜひ読者の皆さんの感想をお聞きしたい。
次回はブダペスト