国志夢走

Visionを描き、自身の仕事や人生に誇りを持った人であふれ返る国をつくりたい。「みんながプロフェッショナルに出演できる」そんな社会が理想です。

努力のイメージを劇的に変える努力不要論

 結論。

この世界には間違った努力がはびこっている。

正しい努力とは、闇雲に苦労することではなく日頃から内省の習慣をつけたり、将来的な成功のための選択をする機会を多く持つことだ。

 

こんな話をします!最後まで読むとグッと理解できるようになってます。

 

 

 

 

----------以下本文 -----------

僕の抵抗感の強い言葉の1つに努力がある。日本は努力という言葉を持て囃す国だ。

 

コツコツ頑張る、根性論、清貧な美徳などと努力は相性がいいのだろう。漫画でも対して努力もせずに成功する主人公なんて出てこない。

 

努力という言葉のもつ、圧倒的正論感がどうも苦手だ。努力継続という言葉に染み付いた愚直さや汗臭さが嫌いだ。スマートにこなす方がかっこいいじゃないか。

 

僕がこうやって努力にコンプを拗らせているのは、おそらく中学受験での投資勉強量とそれに見合った合格という結果が得られなかったことの反発心によるものだ。

 

 

「努力じゃなくて才能なんだ、天才には凡人はいくら努力をしても勝てやしない。」

 

 

こんな神話を掲げて、天才でもない僕はどこにも行けない...なんて悲劇のヒロインぶって悲観する時がよくあった。

 

 

 

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最近読んだ中野信子さんの『努力不要論』という本が、脳科学に基づいて努力について語られていて大変興味深かった。精神論に帰着されがちな努力を科学的に表していて飲み込みやすかった。

 

 

今回はこの著書を元に、努力との正しい付き合い方を模索していきたい。

 

 

努力を美化する社会的なバイアス

 

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トーマスエジソンの有名な言葉にこういうものがある。

 

天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。

 

 

この言葉はあのエジソンもほとんどが努力によってできているという努力を重視した美談として認識されていることが多いだろう。

 

しかし、エジソンの真意は「99%努力したとしても1%のひらめきがなければ全てが無駄になる」だったということはあまり知られていない。

 

 

この事例以外にも努力を重視した成功譚はたくさん存在している。それ自体は問題ではないが、オチを努力は美しいにしようとするあまりに軽視されて語られないものが多いと著者は主張していた。

 

 

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日本では明治時代ごろから努力信仰が始まったそうだ。列強諸国に追いつくためにもこれから日本を強くしていく必要があり、一丸となって国の発展を目指すためだと紹介されている。

 

戦時中の清貧や、贅沢しません勝つまでは、といったスローガンと似た匂いを感じなくもない。当時の管理者にとって都合がいい概念だったのかもしれない。

 

 

「努」という漢字は、奴隷の奴に力と書く。今やっている努力は果たして自分のしたいことなのだろうか?我々を管理するために、社会が巧妙に設計したものではないだろうか?

 

 

社会がうまくまわるから、努力を持て囃すように我々に刷り込んできた可能性があることを知っておく必要はあるだろう。

 

 

 

 

 

努力と苦労を履き違えるな

 

努力を根性論と感じる理由に、「努力=苦労」という等式が成り立っていることが挙げられる。

 

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どうやらこんな名言Tシャツもあるらしいので、世間にこの認識があることは間違いない。

 

 

著者は真の努力についてこう述べている。

真の努力というのは本来、成果を出すために必要な

①目的を設定する

②戦略を立てる

③実行する

という3段階のプロセスを踏むことである。

 

目的や成果を達成するための手段としての努力だ。なのでこの3段階のプロセスは納得できるものだ。

 

この3段階のステップを踏むために苦労はついてくるかもしれないが、努力=苦労として、苦労することを目的化するのは間違っている。

 

 

努力は人間をダメにしてしまう側面も持っているという。努力をしている感覚が自分をすごい人間だと誤認させる。頑張ることが自分を冷静に見つめさせることを妨げる。

 

努力そのものが楽しくなると、その他のことが考えられなくなる傾向があるという。

 

 

とりあえずやってみるというマインドは時には重要だ。だが、そのさきにあるものが何かという視点は持ち続ける必要がある。

 

 

 

才能との付き合い方

 

努力を賛美する理由に、「才能は変えられないものとして存在するから不平等だ」「後天的に逆転できると信じられないとやってられない」などの才能にまつわるものがあるだろう。

 

 

僕もその気持ちはすごくよくわかる。努力は誰にでもできる開かれたもので、それによって誰とでも平等に競うことができる。そう思いたいのだ。

 

 

それでも著書は同情せずにこう言い放つ

生まれ持った才能で活躍している人を見てずるいと感じてしまう時、その人は自分が持っている才能には気づいていない。

 

これは刺さった。相手を妬んでいる時、意識は相手にあって自分に何があるかを探そうとはしていないのだ。

 

 

 

では、才能はどうやって見つけるのか?

著者によると

才能があるかないかと言うのは自分が持っている適性を知って、自分の評価軸を確立できているかどうかということに尽きる。

 

もしも自分に才能がないと思ったら、自分を取り巻く環境と自分の持っている資質のどこが適応しないのか考える機会を与えられたと思え。

 

自分の嫌いなところは自分でも気づいている自分の資質だ。

 

 

このことから、

才能は自分の中に確かにある。

ただし、自分が持っていたらいいなと思う憧れている才能とは違う。

 

こんなことがよく起こってるのではないかと類推した。

 

 

 

努力する人しない人

ポテンシャルがあって努力する人とポテンシャルがあるが努力しない人の比較の場合、意志力の違いが現れるという。

 

では意志力の強い人間とはどういう人間なのか?

 

意志力の強い人と弱い人の差は、人という生き物はそもそも意思が弱いということを知っているか知らないかという差だ。

 

 

 

日頃からもっと頭を使え!

これまでの記述から自分のことを正しく認識しているかが重要なことがわかる。

 

才能も、意志力の話もそうだ。真の努力の戦略策定も自分を知っていなければ正しくは立てれまい。

 

 

脳化学で言えば、前頭前皮質の機能が高いか低いかの違いである。

 

これは普段の生活野中でなるべく頭を使うことで鍛えることができる。

 

知識の深度や経験値からくる判断能力、意思決定力は後天的に伸ばすことができる。日頃から内省の習慣をつけたり、将来的な成功のための選択をする機会を多く持つことだ。

 

 

 

この著書を読んで、僕の努力コンプレックスは少し和らいだ。読者の方々は努力に対する見方は変わっただろうか?

 

間違った無駄な努力はやめて、意味のある行動をしよう。

 

 

 

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