国志夢走

Visionを描き、自身の仕事や人生に誇りを持った人であふれ返る国をつくりたい。「みんながプロフェッショナルに出演できる」そんな社会が理想です。

ヒュッゲとは ~hygge cafeで考えた使命感と幸虚~

 

「あったかい」「居場所」このような言葉を聞いた時にどんな情景をイメージするだろう

 

暖炉を囲んでいたり、気が置けない友人や家族との団欒の時間などを想起するのではないだろうか。

 

現代社会は個別化が進み、このような”あったかい場所”は少なくなっているのかもしれない。核家族化にマンションではご近所づきあいは減ってきている。地域の結束を強めていきたいという声もあるが、どちらかというと関係性が希薄になってきたというイメージが強い。

 

 

世界幸福度調査では、日本は51位である。1位はノルウェー、ついで2位はデンマークと北欧諸国の幸福度が高いことがわかっている。

 

 

その幸福度2位のデンマークにはhuggeという文化?がある。ヒュッゲと発音するのだが、これはバッチリ対応する日本語がないため説明が難しい。頑張って説明すると、ホッとくつろげる時間や空間を大切にしようとする暮らしを楽しむ姿勢のことだ。

 

 

先日、デンマークに実際に渡航経験のあるメンバーによって大阪でhygge cafeというイベントが開催された。運営兼コックの羽田氏とは同じ団体で二年間一緒にチーム活動していたこともあり参加した。

 

今回は実際に参加してみて感じたことを書こうと思う。Facebookイベントページは下のリンクから飛ベるのでみてほしい。

HyggeCafe 〜幸せが見つかるカフェ〜

 

 

 

夜の部の最終回に参加したのだが、気温は寒すぎずリバーサイドでビルの屋上という立地でロケーションも抜群。キャンドルの灯りが何ともエモい空間だった。

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こんな感じで初対面の人もいたのだが空間のおかげかこころ穏やかにみんなで話をしていた。

 

 

自然と各々の日々の疑問を口にして語らったり、ホットワインに舌鼓を打ったりと贅沢な時間を過ごした。あっという間に二時間が過ぎていったのを覚えている。

 

 

最後に「あなたにとってhyggeとは何か?」というテーマについて話した。参加者それぞれの解釈を伝えてくれてどの解釈も確かにあったかい場所だなと感じた。認められるというフレーズが多かったように記憶している。

 

 

僕は「肯定的な"何もしなくてもいい"」だと定義した

 

 

人は個体差はあれど自己有用感に駆られて生きている。貢献することで他者から価値を認められることによって自分を肯定できる。

 

 

”お前は何もしなくていい”とはどういうことかというと、その場にいてくれることそれ自体がすでに貢献しているということを意味するのだ。不要だという否定的なものではなく、あったかさの伴った”何もしなくていい”は無条件の存在承認に他ならない。

 

欧米的な契約関係の伴う組織(ゲセルシャフト)というより、家族的な関係の共同体(ゲマインシャフト)に近い。

 

 

何もしなくていいというところから「虚」という漢字を連想したのだが、どうも「虚」という漢字にはマイナスの意味をもつ言葉しかない。

 

いい意味で何もしなくていいという概念はないものか...そう考えた結果、「空虚」ではなく「幸虚」という言葉を無理やりつくってみた。

 

 

”何もしなくていい”が大事だと述べたが、そればかりではダメになってしまうから使命感が必要なのだと思う。僕が単に好きな考え方だということもあるが、何か目的を持って生きる方が濃い人生を送れると信じている。

 

 

使命感と責任感という言葉を僕は使い分けている。ブラックエンジンとホワイトエンジンという区分と近しいものがある。

 

 

ポジティブな感情の「やらねば!」が使命感(should+want)で、ネガティブな感情の「やらなくちゃ」が責任感(should only)だと定義している。ちなみにブラックエンジンは憎しみなどの負の感情の原動力、ホワイトエンジンはきっかけが負の感情だとしても正の感情に変換した原動力を意味している。

 

 

使命感は自分を前に突き動かしてくれるもので大切な感情。この感情のおかげで人々は不可能を可能にしてきたのだと思う。

 

使命感にはwantが含まれているとはいえ、義務というのは自分に負荷がかかる。

 

 

だから、使命感に駆られて進む自分と幸虚に浸る自分のどちらもが必要なのだ

 

 

幸虚を感じる時間があるからこそ回復できて、何かを成し遂げようという行動に力を振り絞ることができるのだ

 

 

頑張ってるけどどこか寂びしかったり、心が荒んでいるなと感じるのであれば幸虚な時間を少しでもいいから取ってみてはどうだろう

 

 

そんな居場所をいくつかもったうえで、目的に向かって懸命に進める人生が幸せなんじゃないかな

 

 

 

 

 

 

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宿坊インターン 高野山で人生について考えてみた

もう約二ヶ月も前のことになるのだが、高野山は密厳院にて幸せについて考える宿坊インターンに参加してきた。今回はその時の話をしようと思う。

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<目次>

・宿坊インターンとは

・兼ねてからの隠居願望

修羅道からの脱却

・俗世から離れるチルアウト

心理的安全性と自己解放

 

 

宿坊インターンとは

宿坊インターンってそもそもなんやねんって思ってるだろうから、まずはその説明を。宿坊インターンとは株式会社gCストーリーが開いているインターンのプログラムだ。この二年くらいで始まった企画で、就活就活していないし幸せを考えるって何やねんっていうツッコミどころ満載の企画だ。でも、参加者はみんなあったかい気持ちになり帰っていく。自分もそのうちの一人だ。

 

高野山のお寺に泊まり込んで初日は仏教についてのインプットをして、二日目は社員と会社がより幸せになるためのプランを考えるという内容だった。

 

 

兼ねてからの隠居願望

僕はこのインターンを知ってすぐに参加したいと思った。理由は様々あるが、1つが兼ねてからの隠居願望を短期間だけでも叶えたいという気持ちからだった。

 

大学二年の夏前、僕は何かを突き詰めていき社会を変えていくような道を選ぶのか、ひたすら知識や経験をして知的好奇心を満たしながら穏やかに暮らす道を選ぶのかを真剣に悩んでいた。変な奴だと思うかもしれないが。笑

 

僕は学生団体で活動しているのだが、来年に経営層になりバリバリ活動していくのか、ぼんやりと本を読みふけりながらひっそり幸せに生きる隠居生活をするのか決めかねていた。元々はバリバリ頑張りたいというタイプではなく、何をするにもほどほどでいいと思っていた人間だった。だからこそ、いばらの道を突き進むような生き方が自分にとって幸せなことなのかわからなかったし、知的好奇心が強かったり考えるのが好きだったからこそただ考えるだけでいたいと思っていたのだ。

 

結局、極めようとする道を選ぶことになる。理由は隠居してから極める道って順番は無理だろうけど極める道を進んでから隠居はできるだろうと思ったからだ。だから僕は晩年まで仕事をし続けるつもりはない。早めにリタイアして教養の海におぼれようと思っている。

 

そんな経緯で隠居を一旦封印したのだが、何ともぴったりな機会があったので喜んで参加したのだった。

 

修羅道からの脱却

初日のインプットのなかで大きなテーマとして六道輪廻というものがある。

一部以下のブログで説明しているので、よかったら読んで欲しい。

jackshima.hatenablog.com

六道のうち、人間道の1つ下の道に修羅道というものがある。修羅とは戦いの神である。争いを繰り返すような世界が修羅道だ。競争心とは、醜いものであり人の下に当たる行為なのだということを仏教を通して知ったわけである。

 

僕は負けず嫌いな人間であり、何かに対して頑張ろうとするときの気持ちも負けないとか競争心が伴うことが多かった。競争心が全て悪いわけではない。だが真に強い人間とは競争心に頼ることなく寛大な心持ちのままに高みへと達することができるのだということに気付かされた。

 

自身を幸福にしながらも進んでいけるような、そんな懐の広い人間であり続けたいなと思えた学びだった。競争心に飲み込まれるのではなくそれすらも取り込んで葛藤しながらも競争を超えた心理状態をつくっていきたい。

 

きっともっと自由に生きれるはずだ。我を捨てるってそんな感じなのかなぁ。

 

俗世から離れるチルアウト

物理的な都会の喧騒から離れることはとても重要である。今回泊まったお寺には縁側があり、燦々と日光が降り注いでいた。そこで寝転びながら作業する時間はなんとも言い難い幸せなひとときだった。

 

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こんな感じ。幸せな感じが十分に伝わるだろう。筆者は白い服で全身に日光を浴びている。

 

もう、細かい悩みなどどうでもよくなってくるのだ。こころ穏やかに暮らせるから、修羅道にも陥らずにすむのだと思う。

 

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これはお寺で出された精進料理だ。精進料理というが客人向けでとっても豪勢だ。もちろん健康的だし、しばらく金欠でひもじい食生活をしていた僕にとってはありがたい以外の何物でもなかった。体に入れるものが良いと、自然と心も磨かれるものだ。

 

ファーストフードしか食べていない時と、こんな温かみを感じるご飯を食べている時とでは感情はそりゃ変わるだろう。

 

宿坊という空間は、ストレスの多い現代社会において重要なチルアウト空間だ。僕も半年に一度は行って気分をリセットしたいと思った。

 

心理的安全性と自己解放

心理的安全性という言葉を知っているだろうか?少し前にGoogleがいいアウトプットと関係が深い要素として提唱して以来話題になっている。今回の宿坊期間中に、競争心が和らいで優しい気持ちで過ごせた理由はその場の雰囲気によるものも大きかった。

 

参加者全員が気持ちのいいやつばかりだったのだ。この場では優しさが尊重されるし誰も傷つけてはこない。その安心感があるからこそ、自然体の自分を曝け出しやすくなるし、それをみて他の人がという具合に連鎖していくのだ。

 

たとえ物理的に空間がリラックスしやすい場所に移動しようとも、人の醸し出す雰囲気が緊張感を持っていればリラックスはできない。

 

 

何か高い目的に向かって頑張り続けながらも、その過程は競争心にとらわれることがなく、ここにいていいのだと思えて自分をさらけ出せる。

 

そんな生き方が幸せなんじゃないかなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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負け癖とGap

こんばんは、久しぶりの投稿です。

僕のブログは二種類あり、

①自分の感情のみを元にしてつらつらと書くブログ

②自身の学びとリサーチを通して、ある程度たしからしさを担保しているブログ

がある。②は執筆するのに時間がかかるためあまりかけないが、①なら結構短時間で書くことができる。また①の方が評判が良かったりもする...w

①をなるべく書きながら同時並行で②を書き進めて時々投稿するというやり方にしようと思う。

 

 

本題に入る。

僕は幼い頃から苦手なことに努力継続というものを掲げてきた。実際にそうだなと思うことが多いし、ウサギとカメなら僕はウサギだと思って生きてきた。呑み込みは早い方だと自負していたし、ぶっちゃけ頭の回転も早い方だ。だけど、努力ができない、そんな部類の人間だと自己定義していた。天才ではないし、努力もロック・リーみたいにできるわけじゃないからどこにも行けず、悶々とするが理想だけ見える、一番不遇だ...なんて悲観を中高時代によくしていた。「もっとバカに生まれたほうが幸せだったのに」なんてことを思っていた。いわゆる厨二病なのかもしれない。w

 

 

しかしこの二年間くらいはその感情に対して、

「不真面目だとか努力しないとかいうけど、本当だろうか?なんだかんだやってるよね。うんそうだ。」

と思い込むことによって蓋をすることに成功していた。

 

実はこの蓋をする、思い込むという行為は大事だ。

僕は「優しい人間ではない」という自己定義もしていた。

 

だからこそ人に親切にしたり、めっちゃ丁寧な接客をすることが柄にないなと感じてうまくできなかったり不器用に表出してしまうことがあった。

 

 

しかし、この話をしたところ「そんなことはない」「そう思える君は十分優しい人だ」などの言葉を周りの方々に伝えてもらえて、自己評価が間違えているんだ、自分は優しいと自己定義を上書きすることができた。そういう心持ちだと自然と行動も変えやすかった。

 

 

次のステップは習慣化である。思い込むという行為を通して行動することへの抵抗を下げても、一時的なもので習慣化しなければ効き目は切れる。切れては思い込み、切れては思い込みを繰り返していくうちにいつしか負け癖がついてしまう。

 

 

負け癖がつくと厄介だ。何らかのきっかけでモチベーションが上がってやる気になったとしても、心のどこかでどうせしないだろうなとか考えが広がるだけで行動には反映されないんだろうなと冷めた目で見る自分がいるのだ。

 

 

自分に期待をかけれなくなったら終わりだと思う。他者と自分自身のどちらからの期待が原動力になりやすいのかは人によって違う。どっちももちろん必要だろうけど。自分への期待値の高さが掲げられる理想の高さと比例する。

 

 

人は誰しも理想と現実のGapを抱えている。そして人が耐えられるGapの開きには個体差があれど限界がある。その限界が近づいてきたとき、楽になりたいという思いから理想を下げるのだ。こうして、高い理想は失われていく。

 

 

Gapが広がってきた時、その乖離を小さくする方法は理想を下げることだけではない。現在の自分を高くしていけばそれだけ乖離は小さくなる。今すぐ小さな行動を変えることでそれは可能になる。調子がいいときは理想を達成できると信じられるはずだ。

 

 

負け癖がつくと現在の自分が上がっていくとは思えないから、Gapを縮められなくてしんどいのだ。残念ながら、あっと驚く解決策は存在しない。

 

 

小さくていいから、今すぐ1つ何かをすることだ。その成功体験を積み重ねることでしか、負け癖は取れない。今僕がこのブログを書いたのも、負け癖がよぎったり無力感に苛まれたからだ。少しでいい、5分でいいから取り組むんだ。大丈夫、やればできる。

 

 

どうか自分で自分の可能性や理想を潰さないで欲しい。自戒も込めて終える。

 

 

 

 

 

 

 

 

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帰納と演繹から考える志

僕の属している学生団体では"志"という概念を大切にしている。そう簡単に見つかるものではないし、一度見つけたらはい終わり、というものでもない。今回はこの"志"について深めてみる。

 

 

志とは何か

志をなぜ持たなければならないのか

帰納と演繹

3つの価値から考える

あなたにあった考え方をすればいい

まとめ

 

 

  志とは何か

志とは何か?それは、

"理想の社会を実現するために、全力をかけて成し遂げたいと思えること"

だと考えている。

つまり、志を持つためには理想の社会を描くことと、自分の熱意が湧くものを見つけている(≒価値観を知る)必要があることになる。また、当然価値提供ができている必要がある。

 

理想の社会を描くためには、過去や今、未来の社会がどうなっているのかを知らなくてはならない。学生のうちから確度の高い社会認知をすることは難しいが、具体化してみよう、社会認知してみようとすることが大事だと思う。

 

自分の熱意が湧くものや、価値観を知る作業は自身の過去を遡っていくアプローチを取ることが多い。原体験も大きな要素になるだろう。

(原体験については以下のブログでまとめている。)

jackshima.hatenablog.com

 

 

 

志をなぜ持たなければならないのか

志の定義をしたところで、次にたまに言われるなぜ志を持たなくてはならないのか?という問いについても考えてみる。

 

まず論理的に志を持たなければならない理由を話す。

我々は普段意識しづらいが、人に支えられて生きている。つまり社会に参加している一人なのだ。

そんな社会の一員だからこそ、全精力をかけていきたいものを見つけ社会に貢献する必要がある。ただ私的な衣食住を得るだけでは蟻と同じだ。

福沢諭吉の『学問のすヽめ』からの引用である。

要するに、自分たちは社会に生かされているのだから自身も社会に貢献する責任があるはずだというものだ。私的な欲求を追求するだけではだめだと説いているのだ。

 

個人と社会は対比して話される事が多いが、個人が個人の自由を持ってして生きられるのは社会が存在するからである。社会があるから個人は個人として生きることができている。社会がなくなれば個人で生きることは不可能なのだ。このことからも志を持たなくてはならない理由が見えてくるだろう。

 

 

次に、感情からくる志を持ちたいという流れを伝える。

 

 

リクルートワークス研究所の社会リーダーについての考察を読んでみてほしい。

トップページ|「社会リーダー」の創造

 

社会課題へアプローチする人と言われると図の課題起点のプロセスを思い浮かべる人が多いかもしれない。国連に務めたいと考えている人や、NPO職員のイメージが強いだろう。確かにそういった社会課題を自分が見過ごすことができないという思いが持てれば志を持つことにつながるであろう。いわゆる王道な考え方だと言える。

 

 

一方で僕にはそんな感受性はない、という人もいるかもしれない。そんな人も志を持とうと思うことはある。それが右の流れである。人は誰しも多かれ少なかれ力の欲求を持っている。自分を変えたいという願いを持っている。その感情から何者かになりたいという気持ちを強めていくことで志を持つことにも繋がっていくはずだ。ちなみに僕もこっちのルートの色が強いタイプの人間だ。勘違いして欲しくないのは資本主義社会において成功しさえすれば良いと言ってるわけではないということ。成功した先の目的が社会に向いているという大前提を据えている。各国の首脳がみんなSDGsに関心がありまくりだったらどうだろう?多少今よりも社会は良くなっていると思わないか?社会的地位の高い人になることを社会を良くするための手段として捉えてみてほしい。何者かになりたいという最初は浅はかな願いだとしても、自分起点で本心のwantはやっぱり強い。偽善という人もいるかもしれないが、やらない善よりやる偽善だ。

 

 

 

 

 

 帰納と演繹から考える志

帰納と演繹という二通りから志を考える。

 

先ほど志とは理想の社会において成し遂げたいと思えることだと言った。だがこの文言だと基本的に思考プロセスは演繹的になりやすい。

 

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このピラミッドは以前、以下のブログで登場したものだ。

jackshima.hatenablog.com

 

演繹的に志を考えるとは、理想の社会(≒Vision)は何か?という問いから始まり、社会の成り立ちや構造をしっかりと学ぶ必要がある。社会認知が高ければ高いほど解像度の高い志を持つことができるのだ。

 

社会に求められていることは何かを知り、使命感に駆られて目指すパターンが想定される。

 

 

帰納的に考える場合は、自分がいいなとか好きだなと思うこと、判断基準(≒価値観)をどんどん昇華させていくアプローチだ。自分が好きなことは何?それが自分から隣の人まで広がっていくとどう?じゃあ理想の教室は?みたいな感じで社会に広げていく感じ。社会に繋げようとしていなくっても、俺はこれが好きだってものをどんどん続けていくと自然と社会に価値を届けれるレベルになってることもある。

 

 3つの価値から考える

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これは3つの価値という、お金2.0において提唱されている概念である。

画像で解説されている通り

・有用性の価値 便利で役に立つという価値

・内面的な価値 好きとかなんかいい!みたいな心に作用する価値

・社会的価値  社会全体に提供している価値

 

と分けることができる。

 

先ほどの帰納演繹の考え方とリンクさせることができる。演繹的な考え方では社会的価値を前提にして考えることになるし、帰納的な考え方では自分の好き起点で始まるので内面的な価値を持つ場合が多いと言える。どちらにせよ、ちゃんと価値を持っている前提がおかれている。

 

 

 

 あなたにあった考え方をすればいい

これまで帰納演繹どちらから考えるかという話をしてきたけれど、大前提あなたに合った考え方をすればいいと思う。

 

「誰にどんな価値を与えるのか?」という問いに対して答えやすいか、自分はどこに思いが乗りやすいのかで志を見つけるアプローチを使い分ける。

 

演繹一辺倒で志が見つかる人は、例えば政治家みたいにこの国をよくするためにはどうすればいいのか?ということについて考えるのがもともと好きで、社会的価値の追求をしたいと強く思う人にとってはやりやすい考え方だろう。僕も演繹で考える方がどちらかというと合ってるタイプだ。

 

帰納一辺倒で志が見つかる人は、Youtuberとかかな。自分の好きなことを夢中でやっていくうちに知らないうちに極められて社会に価値が与えられるようになってきたパターンだ。

 

 

2つのパターンを紹介したが、多分ほとんどの人はこの2つのパターンの中間だと思う。自分もそう。演繹8の帰納2くらいが多分自分はいい塩梅だ、といったようにグラデーションがある。

 

 

自分はどんな人なのか考えて、帰納演繹の両面から考えていくことが大切だ。

 

 

 

 まとめ

・志とは"理想の社会を実現するために、全力で成し遂げたいと思えること"

・志は論理、感情から持つべきだと言える

帰納演繹の考え方があり、内面的価値、社会的価値が親和性が高い

・人それぞれ帰納演繹で志が持ちやすいバランスがある

 

 

 

 

 

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どうしようもなく腹が痛いです。逃げの思考術

突然ですが、どうしようもなく腹が痛いです。その腹痛の中、ジタバタもがくようにはてなブログを書いております。

 

 

これは別に急性胃腸炎とか日頃の不摂生が祟ったとかではなく(食生活が乱れてるのは事実です)、逃げられない中でうまくいかないかもしれないという恐怖に襲われているからです。(珍しく今日は敬語テイスト)

 

 

 

スポ根魂の強い、いかにも馬力がありそうなメンタルの強い人間が僕の所属する学生団体には多くいます。小中高と1つのスポーツを続けてきて全国大会にも行ったことがあるなんて人もいます。打って変わって僕は三年以上1つのものを続けたこともないし、怖がりな人間で何かと嫌なことがあるとなんとかして回避する方法はないのかを探し回る。そんな人間でした。

 

高い障壁があるときに、もはやMなんじゃないかと思うレベルで毎日困難に立ち向かえる人がいますよね。さっき上げたようなスポ根魂の人たちはその類いだと思います。継続して困難に立ち向かえるというその力は間違いなく素晴らしいものです。

 

 

 

一時期は僕も毎日ストイックに修行して10kgもする腕輪をつけてトレーニングをする孫悟空のような人になろうと思っていました。でも、そういうタイプじゃないんだからしゃあない。どうやれば楽できるか、回避できるかって発想が強いことも別に悪いことばかりじゃないんです。効率的に物事を進められたり、画期的なイノベーションにつながる場合もある(かもしれない)。

 

 

 

 

そうやって日頃から嫌なことをなるべく回避して生きがちな僕も、たまにどうやったって回避できない時があります。そりゃそうです。ドラクエでも敵を避けて進んでいってもボスとは戦わないと結局先に進めないのと同じです。いいえを何回選んでもそんなこと言わないでくれよってずっとループするんです。

 

 

 

一応ドラクエでも、世界を救わない、ストーリーを先に進めないという選択をするのであれば、中ボスに話しかけることなくずっと野山を駆け巡っておくことは可能です。

 

 

でも、「世界を救うことはもう決めたことで、せざるを得ないんだ」という状況においてはやはり戦わざるを得ません。

 

 

このドラクエの例のように、自分の意思で決めてこれは絶対にするぞっていう目的や目標がある場合に逃げられない状況は訪れます。

 

 

大抵その立ち塞がる敵は今倒せるかどうかわからない絶妙なレベルなのです。ああ、戦わずに逃げたい。誰か助けてくれないかな?どうすればしないで済むだろうか?そんな逃げの思考を一通り検索をかけ、どうやったって無理で退路はないことを徐々に悟っていきます。こう考えると背水の陣ってメンタル的に有効なんだろうな...。

 

エヴァンゲリオン碇シンジの逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ...

 

もうこんな感じ。

 

 

思い返すと、小さい頃はしょっちゅうこの腹痛がありました。塾の宿題やれてないのに通わなきゃいけないとき、いたずらをしてバレそうな時etc...でも最近は滅多に起こらなくなっているのです。これは多分、お腹が痛くなるほど追い詰められる場面が減ったからです。自分のキャパが広くなって片手間でもこなせることが増えたからです。ある意味成長しています。

 

 

同時に成長が止まっている証拠でもあります。

 

 

来月頭に70人くらいが集まる一泊二日のイベントをすることになっています。最初にやってみたいと言い出した時と比べてどんどん大きなものになってしまいました。期待や責任もどんどん大きくなってきました。その結果、お腹が痛くなっているわけです。

 

 

でもやるしかない。ちょうどこんな不安を吐露できる人が何人かいて、その人たちに話したところ

 

「そうやって慢心してないなら多分大丈夫、安心した」

 

と言ってくれる人がいました。

 

 

こんな感じで逃げたくても逃げれず腹が痛いときは、その事実を打ち明けられる人がいるかどうかが大事です。そしてその打ち明けた後に帰ってくる言葉で自信を取り戻せたらもう大丈夫。腹痛すら可愛く思えてきます。

 

 

こうしてブログを書いてるうちにだんだん痛く無くなってきました。このまま回復しすぎて慢心したら一番の愚か者ですね。笑

 

まとめると

・重圧でお腹が痛いときは、成長痛だと思って愛おしさすら覚えましょう

・人に不安を打ち明けられることが大事

・自信が足りないから、自信をもらおう

 

 

 

 

 

 

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「"〜だから好き"、は恋 "〜なのに好き"、は愛」を考える

はい、久しぶりにイタい記事を書きたくなったので書いてみます。

 

そもそも書こうと思ったきっかけは、先月

っていうツイートをしたら思いの外いいねが集まったという事があったからだ。なのにじゃないじゃんっていうのは、”新垣結衣じゃない、なのに好き”と句点をつければ解決するので問題はない。

 

下手すると今まで一番いいねついたツイートかもしれない。最近気付いた事なのだが、どうも僕は若干自嘲気味なツイートが伸びるみたいだ。そうはいってもこれが一番いいねが多いのはやっぱ嫌だ。笑

 

そんな事はさておき、本当に「"〜だから好き"、は恋 ”〜なのに好き”、は愛」は正しいのかについて思うことを述べさせてもらう。

 

 

この言葉は使われてはいないがこれは真理だとして理解されてきたはずだという証拠を見つけた。

 

それは先日結婚式のキャストをしていた時に気付いた。挙式の神父さんの誓いの言葉がまさしくそれなのだ。

 

「新婦〇〇さん。新郎の△△さんは〜な時があるかもしれません。それでも守り支えると誓いますか?」

 

これは明らかに順接ではなく逆説で愛を問うているゆらぎのない証拠だ。

 

結婚式での誓いの言葉はもう何十年も歴史がある。皆がその言葉が愛の誓いとしてふさわしいと考えているのだ。

 

 

逆説の好きは愛の証明になるという仮説は確からしいとして、順接の好きは恋である証明はどうするか。また恋<愛であるかの証明を考える。

 

 

恋は語源を辿ると、もともとという漢字である事がわかった。糸という漢字が使われていて運命の赤い糸を連想させるが、戀の漢字が先でそこから波及して運命の赤い糸なんて言葉ができたのかもしれない。

 

歴史を遡ってみると圧倒的に恋の方が愛よりも歴史が古い事がわかった。確かによく古文の授業で和歌に恋というワードが出てきた。愛は一度もなかったのである。このことから、恋はもともと日本にあった概念であり、愛が遅れてやってきた概念である事がわかる。

 

昔は愛の指す内容がなかったわけではないだろう。恋という言葉が今の意味よりも広い範囲をカバーしていてその中に愛を内包していた。そして愛という言葉が生まれ手から徐々に恋のカバー範囲が狭まっていったと予測できる。

 

 

雲行きが怪しくなってきた。恋の方が歴史も長いし、愛よりもいいものなのではないだろうか...

 

 

漢字の形を見ると、恋は下に心があり愛は比べると上に心がある。だから恋は下心なのだ。この説を提唱してみようと思ったが即座にブーメランが帰ってきた。

 

人をつけてみると「恋人」と「愛人」、明らかに下心なのは愛人なのだ。

しかも、恋人は交際している人だから好きで、愛人は妻がいるのに好きという逆説の証明までされてしまった...

 

 

恋<愛という認識はバイアスがかかっている。歌でも愛を歌うものが多いし、Loveという英単語が愛と翻訳されたから西欧への憧れの強かったかつての日本人がもてはやした可能性はある。

 

そもそもどういう基準で優劣をつけるのか?純粋なものはもしかしたら恋かもしれないが、燃え上がっていて情熱的なのは愛かもしれない。でもそれはケースバイケースでどっちが良いことなのかは変わってくるだろう。

 

 

 

ここまでの検討を重ねついに結論に至った。

「"〜だから好き"、は恋 ”〜なのに好き”、は愛」なのは本当。

ただ愛の方が恋よりも尊いというのはつくられたイメージで、恋>愛の場合の方がむしろ多いくらいだということ。

 

 

おふざけ半分で書き始めた記事だったが、思いの外考察しがいがあった。

最後まで読んでくださった読者のみなさま愛してます!笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ティール組織=正解」ではない

先日高野山のお寺で宿坊をするという一風変わったインターンに参加してきた。そこで扱ったトピックの一つにティール組織があった。そこで考えたことを元に、最近話題のティール組織について書くことにする。

 

目次 

ティール組織とは

・よくある誤解

・仏教視点×ティール組織 

ティール組織が機能する条件

・日本社会への応用と障壁

・これからの組織と個人

 

 

ティール組織とは

 

 

ティール組織とは約四年前に出版された『Reinventing Organizations』で登場した組織モデルのことである。フレデリック・ラルー氏が提唱した。

著書では、組織モデルの発展段階とティール組織を実際に構築している組織が成果を出していると言う事例の紹介をしている。

 

では組織モデルはどのように発展してきて、その発展段階の中では最終系に当たるティール組織とはどのような特徴を持った組織なのかを解説していく。

 

 

 

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下から順に組織の発展が発展してきたと述べられている。ちなみにTealも含め全て色の名前である。自身が所属している組織はどの組織モデルだろうか?と想像しながら読んでみてほしい。

 

 

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 レッド組織はサル山をイメージしてもらえるとわかりやすいだろう。

一番強いボスザルが山の一番上で踏ん反り返っている。完全な力による支配が行われている組織のことである。強いリーダーに依存する形で付き従う構図が取られる。

自己中心的で、短期的な損得で動きがちになる。

 

 

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暴力といった力ではなく、権力や階級制度によって統治されている組織である。

長期戦略を立てることができるようになる。自己ではなく集団の範囲までを関心領域に広げることができる。

多くの軍隊や公的機関の組織構造がこれで、基準やルールの遵守が求められる。柔軟性に乏しい。

 

 

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組織の目的は社会的な成功に拡大している。目標達成のためにより効率的に動こうという組織体制であり、柔軟性を持って目標達成に迎える一方で、人材も歯車の1つとして捉えるため人間味が薄い。出世レースなど競争を通した実力主義な組織。

 

急成長する企業で多い組織形態であり、事業の成長のうらに人間関係の軽視がみられる構造になっている。

 

 

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組織風土や理念といった独自の文化を形成し始めるのがグリーン組織である。目標を達成するといった何をなすかも大事だが、どうありたいかといったあり方にまで関心は及ぶ。組織はより家族的な意味合いを持ってきて、オレンジ組織に比べて人間味のある集団へと進化していく。

 

達成力やスピード感に欠ける点もあり、どの場合においてもオレンジ組織よりも良いというわけでは無い。

 

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生命体の組織とも呼ばれている。ティール組織においては役職といった上下関係は存在せず、対等な関係性が築かれている。

合意形成のプロセスもなく、各々が自分の意思に基づいて課題を解決していく。

行動規範や文化といったある種の拘束がなく、自由度がかなり高い組織になる。もはや組織とは言えないかもしれない。

その自由が高い分、個々人が責任を持った行動ができる必要がある。

 

以上で簡単ではあるがそれぞれの組織についての説明を終える。

 

よくある誤解

 

ティール組織が流行るにつれて誤解も増えているように思う。ここではされがちな誤解を解いていき、正しい理解を促していく。

 

まず、アメーバ組織とは全然別物だということ。ティールは生命体のような組織であるという表現から、アメーバって生命体だよな。あ、アメーバ組織、アメーバ経営ってティールと関係あるのか。という勘違いのされ方をしているようだ。

 

アメーバ組織とは、階層化された組織構造を確定化せず、状況に応じて人事異動やタスクフォースを敷くなどして対応する組織のことである。なので基本的な構造がオレンジであり、構造や人の入れ替えの柔軟性を高めた体制である。誤解のないように理解しておこう。

 

 

次に、ティール組織がどの組織においても理想の組織像であるという誤解だ。

 

ティール組織はもはや組織ではなく共同体やコミュニティに近い。

だから、全ての組織がティールを目指すことは正しくないし、むしろ社会に混乱をもたらす可能性もあるのだ。

具体例を挙げるとインフラなどが、もっともティール化すべきで無いと言える。公的期間がアンバーな体制を取られがちなのは、それだけ公正かつ確実なサービスの提供が行われなくてはならないからである。一個人に自由と責任を背負わせるにはリスクが高すぎるのだ。

ビジネスセクターの場合でも、テスラ・モーターズティールとは真逆な組織体制で成果を残している。マイクロマネジメントという言葉がある。これは細かいアクションまでリーダーが指示したり管理していくマネジメントのことだ。イーロンマスクの場合はさらに細かいナノマネジメントをしているらしく、ここには裁量権のフラット差などない。圧倒的なリーダーの存在を存分に活かしている組織と言えるだろう。

 

組織がなしたいことを実現するために最適なのかということが大事なのだ。

 

 

 

仏教視点×ティール組織

 

組織の発展段階の考え方は真理で、長い歴史を持つ仏教とも通ずる考え方があるという小話をさせていただきたい。これはgCストーリー株式会社の西坂社長にお聞きした話である。

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上の図は、右が組織の発展段階で左が仏教における六道の段階を書いている。

ここで少し六道輪廻について説明する。仏教の目的は仏になること(成仏すること)であり、そのためには我を捨てる必要がある。仏道の修行は全て我を捨てるという目標のために行われているのだ。人は六道をずっとぐるぐる回っていて仏になることでこのスパイラルから脱却(解脱)できるという世界観である。

天~修羅までが三善道と呼ばれ、畜生〜地獄が三悪道と呼ばれる。

天道は苦しみから解放されていて、修羅道は戦いに明け暮れる。畜生は弱肉強食で、餓鬼は欲望の塊、地獄はもうドロドロ。これくらいの簡単な認識にここではとどめる。

 

自己中心的だったレッド組織から、徐々に集団・社会へと関心が広がっていくところや、力による支配から徐々に解放されて自由を手にしていく段階とどこか似ていないだろうか?

 

太古から人々は自然と幸せに生きるためのすべを探し求めていて、同じ答えに行き着いてきたのではないかと思うと少し神秘的に感じる。

 

 

ティール組織が機能する条件

ここまでティール組織について述べてきたが、実際に体制を敷いて機能しなければなんの意味もないだろう。なので次はどのようにすれば機能するのかについて書いていく。

 

最初に強みを確認する。

特徴として、階級や上下関係がなくフラットであるということ、意思決定をその場で下して課題解決に取り組めることがあげられる。

これらの特徴により、スピーディに課題を解決できることや、画期的なアイデアがフラットなディスカッションによって生まれるといった強みが想定できるだろう。

 

ここで条件がいくつか見えてくる。

  • 現場(フロントメンバー)が優秀であること
  • 現場で対峙するであろう課題の難易度が高くないこと
  • 意思決定プロセスが複雑でないこと
  • ガバナンスの縛りがきつくないこと

これらの条件を満たすことが、ティール組織を機能させる上で必要だと考える。

 

経営層や幹部は、例外ももちろんあるが優秀だからこそ登り詰めている。その人たちの力を使わずして課題を解決できると見込めるからティール組織の態勢をとれるのだ。フロントに優秀な人材がいなければ現場で即座に解決することは不可能だし、現場が優秀でも取り組む課題が難しすぎる場合はやはり上に課題を上げなくては解決できない。

 

ティール組織で業績を上げている企業例を見てみると、オランダの歯医者の例がある。歯医者の仕事を詳しく知っているわけではないが、現場で対峙する課題がとても難解だとは思わないだろう。このように、仕事の性質上ティール組織にしやすい、しにくいというものはどうしてもある。

 

意思決定プロセスが複雑な場合、結局現場で解決可能でも確認を上にしなくてはならないのでスピードは殺されてしまう。官公庁など、責任が重たく慎重さを求められる職種ではやはり難しい。個人情報の保護などの観点から現場にあまり情報を与えることができないといった理由もティール組織にできない要因につながる。情報格差こそが組織を階層化する要因だからだ。道がわからない時、道筋を知っている人についていくほかないだろう。その時自然と道筋を知っている人がリーダーとなり仕切るという構図が出来上がる。それと同じことだ。

 

 

 

日本社会への応用と障壁

 

では、日本社会はティール組織に向いているのだろうか?

 

向いていると思う点は、日本は現場力が高いということだ。教育制度がしっかりしているため、識字率はもちろん、小中学校の学力は世界でもトップクラスである。こうした点から高い現場力を有する日本社会はティール組織に向いていると言えるだろう。

 

一方で、意思決定までのプロセスが長くて現場の一存で決められないことは不向きな点と言える。年功序列な組織風土は階層化を引き起こし、現場に意思決定権をなかなか与えることはない。

 

ティール組織は共同体に近いという話をした。自由が多い分、いくつものコミュニティに属していくことが可能になると僕は想像する。

 

副業が最近認められつつあるし、もともと東洋思想は多神教で包含の意識がある。いろんなコミュニティに属していくような未来も実現していくのではないだろうか。

 

世間の目を気にしないと生きていきづらい日本社会において、世論がどちらに傾くかによってティール化の流れが進むか否かは決まりそうだ。

 

 

これからの組織と個人

 

これからは、やりたいことが見つからないと辛い時代が訪れる。しなくてはならないことはどんどんテクノロジーの進歩で機械が代替してくれるようになるからだ。

もちろんその恩恵にあやかり、何もせずにのうのうと生きるという選択肢もあるがそれだけでは満足できないのではないだろうか。

 

個人へのパワーシフトによって、徐々に個人>組織の力関係へと変わっていく。

(以下のブログを参照のこと)

jackshima.hatenablog.com

 

そんな未来において、個人の自己実現をどれだけ組織に所属していてもできるかどうかが組織が生き残るための絶対条件となるだろう。むしろ所属するからこそ自己実現ができるんだと言えなくてはならない。

 

自己実現につながる働き方がしたいという人がマジョリティになってきた時に、自然と組織は個人に自由を認める状況に追い込まれていくと僕は思う。

 

 

組織の形態は目的を達成するための方法であり、自然と個人の価値観やニーズが反映される。営業を鍛えたい、予備校で成績をあげたいという人にとってはあえてレッドみたいな強制力の求められる組織の方が需要が高いかもしれない。

だから全ての組織がティールになる未来は訪れない。

 

 

 

ティール組織=正解ではない。

盲目的に社会で良いと言われるものを取り入れるのではなく、今の自分に、組織に必要なことは何かを考えて組織構造も選択しよう。

 

 

 

 

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